#16 ペーパーバック・キリマンジャロ

よく晴れた午後、木の葉商店街をてくてく歩くイルカの視界に見覚えのある猫背の背中が目に入った。
書店の中でポケットに手を突っ込んだまま本を物色している後姿。
「カカシ先生」
大股でその人物に近づきながら声を掛けると、男は首だけ振返ってイルカを見つけとニッと目を細めた。
「こんにちは」
「こんにちは、夕飯の買い物ですか?」
カカシはひょいとイルカの持った買い物袋を覗き込む仕草で訊ねる。それが通りかかると餌をねだって足にまとわりついてくる近所の猫に似ていてイルカは小さく笑った。なんだかこの人は自分を餌をくれる人間だと認識しているようだ。
受け持った生徒達を介して知り合った上忍は彼だけではなかったが、一番取っつきにくそうだと思っていたこの人になぜか一番親しくしてもらっている。イルカが気にかけていた問題児が彼の担当になったせいもあるが、それだけでこんな風に懐つこい顔をされるとは思わなかった。ふかふかした銀色の髪が猫の毛のようにイルカの手を誘う。アカデミーの生徒達にするみたいに、その頭を思うさまわしわしと掻き混ぜたくなって困る。
実際にそんなことをしたら手を切り落とされるかもしれないのに。
この人ってタチ悪いよなあ。
この男を好きになる女は可哀想だな、と失礼なことを密かにイルカは思っている。カカシが女をどう扱うのか本当のところは知らないけれど。
でも女ならばこの男を好きになっても笑われたりはしないんだろう。
格好良い男を女が好きになるのは普通のことだ。
サクラやいのなんかを見ていると、もちろん彼女らは十分に魅力的だけれど、サスケのようないかにも振り向かせるのが大変そうな男の子をよく好き好きと主張できるものだなあと感心してしまう。いのが何かというと口にする「サスケ君は私のものよー!」という言葉も、サスケ本人は迷惑げに眉を顰めるだけだというのに本当によくめげない。
いつかはサスケも誰かを選ぶ日が来るのだろうが、自分こそが選ばれるのだと信じて、そのための努力に手は抜かないと豪語する彼女達は本当にすごい。
カカシもそんな女達の中の誰かを選んで、特別に扱ったりするのだろうか。
この世の中にはこの男に好かれる女もいるというのが、どうにもイルカには信じられない。職場の同僚や、中忍仲間の中にも美形や男前はいるけれどそんな風に感じたのはカカシが初めてだ。
グレードが高いって、こういうことか。
ぽーっとカカシの顔を見つめているイルカにカカシはニコニコと笑っている。ふと、買い物袋を下げたままバタバタと後を追ってしまったのはとてもとても垢抜けない様子だったのではあるまいかと思い至ってイルカは恥ずかしくなった。他の男友達にはこんな事感じたりはしないのに、どうもこの人の前だと緊張してしまう。
まあ、しかたないか。
相手は写輪眼のカカシだ。
子供の頃、遠くに四代目火影を見てぽうっとなっていたのと変わらない。忍びとして強い人には憧れる。強い人は所作が美しいから見とれる。
カカシは印象は胡散臭いが、覆面や手甲の隙間から垣間見える肌は驚くほど白くて細くて出来の良い人型のようだ。イルカは自分の髪や肌の色が濃いせいか、子供の頃から色素の薄いものに憧れる傾向があった。初めて好きになった女の子は淡いプラチナブロンドでクラスで一番人気のあった子だった。二番目に好きになったのは任務で怪我をして入院した時に担当してくれた木の葉病院の看護婦で----結構、べたな好みだ。
カカシはきっと彼に似合うきれいな女とつきあうのだろう。
本人を前につい詮索するようなことを考えてしまい、いかん、いかんとイルカは頭を切り換え書棚へと目を向けた。
「---っ!?」
話題の本の話でも振ろうと思ったのだが、ちょうど目の高さにある本の表紙を見てイルカはぎょっとした。
胸元を広げ着物の裾を乱した女や、スカートをありえないくらい捲り上げて太股をさらけ出している職業婦人のイラストが描かれた本がずらりと並んでいた。タイトルも「新妻の淫靡な午後」とか「堕天使の戯れ」とか「熟女乱撫」とか、乱撫?なにその造語!?みたいなものばかりだ。いわゆる十八歳未満お断りの書物の棚だった。
慌てて振り返れば鰻の寝床のような店の底には居眠りをしている爺さんが一人、黄ばんだ灰色のレジスターの向こう側で船を漕いでいた。商店街の端っこの埃っぽい小さな書店は大通りにある大きな本屋に客を取られ、大人向けやマニア向けの本を売って持ちこたえているらしかった。
イルカとて健全な男子であるし、エロ本の一冊や二冊はベッドの下に隠している。だが横に立っている男のように人前で平然とこういう類の本を品定め出来るほど面の皮は厚くない。そういう話は恥ずかしくてだめなのだ。アカデミーでも男子生徒によくからかわれるし、ナルトが在学中にはお色気の術なんていうのを食らって鼻血を吹いていた。血の気が多いのかもしれない。
カカシ先生って本当にこういう本が好きなんだ。
カーッと顔に血が上っていくのが分かる。ほんとに血の気が多いのかもしれない。
イルカ先生、とカカシがこちらを振り返る。目が合ってえへらと笑ったイルカにカカシは目を見開いて、それから笑いをこらえた声で
「イルカ先生、顔真っ赤」
と言った。
ううう、うるさいな、分かってるよ!
クックッと笑いを噛み殺しているカカシにイルカはふてくされてそっぽを向いた。
「イルカ先生のえっち」
「えええ、えっち!?」
カカシの言葉に思わず顔を上げる。
子供の前で堂々と十八禁本読むあんたにだけは言われたくないぞ!!
「色々想像しちゃうんでしょ」
カカシの言葉に憤ったイルカだが、そう指摘されて更に顔を赤らめた。否定しようとしたが、あうあう、と言葉にならない。カカシはニヤニヤとイルカの顔を眺めている。
「も、もういいです!お邪魔しました!!」
自棄みたいに大声で告げて踵を返すと、つん、と袖を引っ張られた。
「待って、待って、レジ済ませてきますから一緒にお茶でもしましょうよ」
悪びれない様子でカカシは平積みの新刊を一冊取るとにこりと微笑んでレジに向かった。
「イルカ先生だって任務で色々あるでしょうに」
何で今更この程度でそこまで恥ずかしがるかな?とまだ笑っている。
知るか!イルカの中ではそれとこれとは全然、別なのだ。
帰りそびれたイルカは支払いをしているカカシを横目に店内をぶらりと見て回った。鄙びた店の入り口はガラスの引き戸で、中央を区切るように聳えている棚のこちらと向こうに細長く客の入るスペースがある。一番奥にレジがあって、棚を隔てた反対側には女性向けの雑誌や文庫本が並んでいた。男性向けにはあからさまなエロ本が多かったが女性向けのコーナーにはロマンチックな装丁の恋愛小説が多かった。よく見ると現実的なハウツー本も結構ある。カバーはソフトでも意外と過激な本も多いようだ。
これはこれでちょっと居心地悪いなー、とか思いながら所在なげにイルカはうろうろしてしまう。向こうからカカシが小声で「えっち」と言うのを睨みつけて、イルカは本棚に向き直った。
そして目に飛び込んできたタイトルにイルカは思わず声を上げた。

「『悪魔のくちづけ・下巻』!!」

 

それぞれお目当ての本を入手して一緒に本屋を出た。
カカシが買ったのは『イチャパラ・ザ・ムービー』のノベライズ本だった。映画のノベライズは大体出来が良くないし書いたのも原作者ではないのに、やはりイチャパラフリークならば買っておかねばならないらしい。
一方、イルカは女性向けロマンス小説をしっかり胸に抱いていた。
カカシの後から並んで「これください!」とイルカがレジに差し出したのは、現実にそんな事あってたまるかい!と突っ込みどころ満載であるにも関わらず売れまくっている砂を吐くほど甘ったるい恋愛小説シリーズの一冊だった。平凡な女性が砂漠の国の王子様に見初められたり、記憶喪失の主人公が実は大富豪の娘で謎の男と恋に落ちたりとかいうお約束オンパレードで絶対ハッピーエンドになるというのが売りのシリーズだ。カカシは目を丸くしていた。
こういうのが好きなのだと思われたのだろう。恥ずかしい。
だがこれだけは読んでおかねばならないのだ。
己の過去と未来のために。
からかわれるのを覚悟して必要以上に毅然として本を買ったが、カカシは何も言わなかった。
「あそこにしましょうか?」
少し歩くと茶店があった。草餅がそろそろ出回る頃だ。
よし、今日は草餅に珈琲だ。和菓子に珈琲はけっこういける。
決然とイルカは暖簾をくぐり、席に案内されるとはきはきと注文した。カカシは甘いものが苦手だそうで、珈琲だけ頼んだ。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
イルカは背筋を伸ばして真っ直ぐ前を見ている。
カカシは卓に肘をついてごそごそと書店の紙袋から買った本を出してパラパラページをめくったりしている。
----つっこまないのかよ。
「つっこんだ方がいいんですか?」
イルカの心の声が聞こえたみたいにカカシが言った。視線は本に落としたままなのに見透かされている。
「つっこんでくださいよ」
ちらりと目を上げたカカシにイルカは情けない笑顔で答えた。
からかわれるのも嫌だが、本気でこういう小説がイルカの趣味だと思われて流されるのもそれはそれで不本意だ。あまり話したくない事ではあるが、誰かに聞いて欲しいような気もする。その相手が友人と言うより知人という距離のこの上忍であるのも巡り合わせかもしれない。
「まあ、他人の読書傾向にあれこれ言うのもなんですが。イルカ先生はそういう小説、よく読むんですか?」
素直にカカシは訊いてくれた。
「これ、前の彼女の家で読んだんですよ。下巻だけ見つからなくって気になってて」
イルカは苦笑して答えた。こんな話、この人はきっと関心なんてないだろうに。
と思ったのだがカカシのリアクションは大きかった。
「イルカ先生の彼女?!」
カカシは卓を挟んで座ったイルカの方へ身を乗り出してきた。
「いや、もう、とっくに別れちゃったんですけどね」
仰け反るようにカカシから身を引いたイルカが答える。
「へええ、どんな人だったんですか?アカデミーの同僚とか?」
「いえ、違う部署でしたけど。あんまり突っ込まないでくださいよ」
「つっこめって言ったり、つっこむなって言ったり…。でも大概、挿れてって言った後にイヤイヤ言い出すのは、もっとってことなんで---」
ふう、と溜息をついて零したカカシの科白にイルカは「わーーー」と声を上げた。
「なんて喩え持ち出すんですか!!」
「イルカ先生、さっきから声大きいですよ」
そ、それはカカシが変なことばかり言うからじゃないか!この人、子供達の前でもこの調子なんじゃないだろうな。
「それで、その人とイルカ先生の関係は?」
「いや、だから、彼女だったんですってば」
「好きだったの?」
サクッと斬り込まれる。関心なさそうな顔で相手の懐に転がり込んで、容赦なく斬りつける。カカシはいかにもそんな感じだ。思わずぽろりとイルカの口から心の内が零れる。
「好き、だったのかなあ」
歯切れ悪くイルカは言った。

 

頬にかかる淡い亜麻色の髪、その下に覗くうなじは白く細く、すらりとした女だった。きれいな人、そう思っていた。
最初に声を掛けてきたのは向こうから。受付所で言葉を交わした。二回ほど一緒に帰って、三回目には一緒に食事をしてつき合ってほしいと言われた。
「受付でにっこりしてもらえるのが嬉しくて。私だけにそうしてくれないかなあって思って」
白い頬にうっすら朱を掃いてそう言った。
相手のことは碌に知らなかったけれど、舞い上がってイルカは即オーケーした。アカデミーに勤務するようになってから、帰る家に誰もいないのが侘びしく感じ始めていたせいもある。
女は仕事や所属部署の事は一切話さなかった。受付に現れるのは時折で、普段どんな任務をしているのか受付にいるイルカにも分からなかった。何度か一緒に通勤したから、本部棟内で仕事をしていることは分かった。数日帰ってこない事もあり、相当ストレスのかかる部署にいることは察せられた。
受付で会った時はいかにも優秀そうなきりりとした風情だったのに、二人だけの時、女はいつも茫っとしていた。口数も少なくて、仕事を離れると張りつめていたものが一気に緩むらしかった。
初めて彼女の部屋を訪れた時のことをイルカは鮮明に覚えている。
里に常駐する忍が住む一般的な1LDK、白い外観が小綺麗な集合住宅の三階で、台所と居間を抜け通された寝室の様子にイルカは息を呑んだ。
壁際に置かれたベッド、その枕元に積み上げられ、雪崩を起こしている本の山。
百冊二百冊では足りない、二千冊以上はゆうにあった。
そのすべてが読み捨てられることを前提に刷られた低俗小説だった。
女の冷ややかと思われるほど整った立ち居振る舞いや、会話から感じられる知性の高さなどにはおよそそぐわない光景にイルカは唖然とした。
「こういうの、頭使わないから楽なの」
と彼女は言った。
仕事から帰って、風呂に入りながら読む。そのままだらだらと読みながら食事をし、ベッドで読み終わってから眠りにつくという。
イルカは大いに驚いたが、そういう切り抜け方もあるのだろうかと納得もした。そして、出来るだけ彼女の疲れを癒してやれるような存在になろうと決意した。
酸味の強い珈琲が好きだった。カップを片手にいつも片肘ついてテーブルで物憂く恋愛小説を読んでいた彼女。
自分がいるのに、どうしてそんなものを読むんだろうと思っていた。いつだって彼女のために熱い珈琲を煎れてやるのは自分だったのに、その珈琲を飲みながら彼女は架空の人物達の恋物語に夢中になっていた。
「彼女の仕事の終わるのが遅い日は、俺が彼女の家に行って待ってたんですけど暇で」
部屋で雪崩を起こしている本を整理しながら、一冊を手に取ってみた。
それが、この『悪魔のくちづけ』の上巻だった。
「いや!凄いんですよ、これが!!女の人はこんなの読んでるんだってビックリしましたもん!!」
イルカは片手に買ったばかりの文庫本を振りかざして力説した。ほらほら、と身を避けようとするカカシに突きつける。
それは女性向けの恋愛小説の中でもちょっと過激な恋愛を謳い文句にしたシリーズの一遍で、実際に読んでいる人間はどの程度いるのかしらないがカバーくらいは誰もが目にしたことはあるだろうという本だ。
あらすじはこうだ。
主人公は気位の高い大農場の令嬢、優しくて品の良い婚約者の男がいる。彼女の農場へある日、流れ者の男が牧童として雇ってくれと現れる。主人公は粗野で冷酷な男を毛嫌いする。そして、彼女はその男が自分の婚約者と情事に耽っている姿を目にしてしまう。彼女の婚約者は同性愛者だったのだ。
珈琲に咽せたカカシが、げふっと音を立てた。
「もうビックリ」
イルカは本を掲げながら更に続けた。
屈辱に震える彼女を更に衝撃的な出来事が襲う。彼女自身もその男に犯されてしまったのだ。
「もう、どうなっちゃうの、この人達って思うでしょう!?」
「いや、はあ、まあ、」
この後、このプライドの高い主人公はどうなるのか、ハラハラしながら続きを読もうと本の山を漁ったが、しかし彼女の部屋にあったのは上巻だけで下巻が見つからない。カバーの折り返しの既刊紹介には下巻も載っているから、すでに出版はされているはずなのだ。
帰ってきた彼女にいつものように珈琲を煎れてやりながらイルカは下巻はどこにあるのかと訊ねてみた。
分からない。どこかに転がってるんじゃないの?という答えが返ってきた。一通り探したけど見つからない、下巻は買ったのかと訊くと、やはり分からないという。
何か変だな、とイルカは感じた。
じゃあ話の続きがどうなったのかだけ教えてくれと言うと、笑われた。
---そんなのいちいち覚えているはずないじゃない。
女の言葉にイルカは衝撃を受けた。
「だって、こんなジェットコースストーリーを覚えてないっていうんですよ!?」
毎日毎日、あんなに夢中になって読んでいるのに。
「頭がからっぽになるからいいんですって」
似たような設定で、似たような登場人物で、似たような科白で、同じような筋書き。どんな刺激的なエピソードが並んでも、何冊か読めば慣れてしまう。それでも最初から約束されたハッピーエンドに辿り着くまで貪るように読んでしまう。そして読み終わると安心して眠りにつけるのだそうだ。
それでイルカはなんとなく解ってしまった。
彼女が好きだと言った自分の笑顔も読み捨てられるペーパーバックのようなものだ。
三ヶ月後に彼女から別れを告げられた。

「俺なんてねえ。---ほんと、ペーパーバックみたいなもんですよね」
手に持った厚紙の表紙の本に目を落としてイルカは小さく吐息を落とした。最初から保存されることなんて考えられてない、雑な作りのいくらでも取り替えのきく、平凡で人当たりの良い平均的な中忍、そんなもんだ。
「尽くしすぎて振られたんでしょ」
少しだけ口布をずらして珈琲を啜りながらカカシが言った。
「-------」
イルカは女給が置いていった珈琲と草餅を前にぼんやり目の前の銀色の髪の男を見つめた。
「イルカ先生ってそういうとこあるよね」
「そういうとこって、なんですか」
「んー。湯水のように垂れ流し?」
罰が当たったんです、とカカシはもっともらしく言った。
「なんの罰ですか」
むすりとイルカはカカシを睨む。
「とりあえず目の前にいたら愛情注いじゃうんでしょ」
ひどいよなあ、とカカシが言う。
「----同じようなこと、彼女にも言われました」
「ほらね」
でもそれは、彼女に言われたのはナルトのことだった。
---あなたは相手が子供でか弱くて可哀想ならなんでも面倒見ちゃうのよ。
---あの子が九尾の器だって分かってるの?
---同情でしか人を好きになれないのね。
あれは、ナルトの話にかこつけて彼女自身の不満を言っていたのだろうか?
初めてそんな風に思い至ってイルカはまじまじと目の前に置かれた湯気を立てている珈琲を見つめた。
珈琲を豆から碾いてドリップでよく蒸らして、ゆっくりゆっくり時間をかけて煎れる。イルカのために珈琲を煎れながらそう教えてくれたのは彼女だった。酸味の強い珈琲の方が気分がすっきりするでしょう。労るように言ってくれた。
では、歩み寄ろうとしなかったのは自分の方だったのだろうか?ただ彼女の機嫌を取るようなことしかしなかった。見くびっていたのは自分の方だったのだろうか。
茶店の窓ガラス越しに午後の光が差している。木製の卓の上で、草餅に合わせてカップを選んだのだろうか、珈琲カップの縁にかけられた緑の釉の色が珈琲の深い色に映えている。
「人を騙す時のコツって、知ってます?」
カカシが言った。
急な話題の転換にきょとんとしながらイルカは少し考えた。人を欺くための技術は色々ある。
「嘘に少しだけ本当のことを混ぜる、とかですか?」
それもありますけどね、とカカシは続けた。
「相手が信じたいと思っていることを信じさせてやるんですよ。騙されたいと思っている奴を選んで騙すんです」
こういう本ってね、とカカシは自分の手元のイチャパラを目の前に掲げて見せた。
「作家志望の、でも売れない半端な文章書きが金のために書くんですって。イチャパラは、まあ、映画化までされたベストセラーですけど、ま、人のね、読みたいと思うような場面やストーリーを書いてゆくんですって」
そのために裏では読者層の傾向をリサーチして、最大公約数的な好みを割り出しているのだという。
「最初から主義も思想も、なんもないんですよ。ただ人を良い気分にさせるためだけに書かれるんです」
大勢の読者を確保するにはそれが一番無難で確実な方法なのだ。
「受付で不特定多数を相手にするあなたみたいなポジションには手堅い方法ですよね」
そうだろうなとイルカは思った。
誰にでも好感を抱かれるように、とりあえずは笑っておけ、受付ではそう言われる。
「アカデミーではおっかない先生なのにねえ」
カカシが笑った。
「俺がこういう本を好きなのはもちろん、そういう何にも考えないでエッチな話を楽しめるからなんですけど、特別にイチャパラシリーズが好きなのはお気楽で馬鹿馬鹿しい話の中にちらちら、これを書いてる奴の考えや感性が覗くからです」
カカシはポーチからいつも持ち歩いているイチャパラの原作本を取り出してパラパラと捲って見せた。
「これを書いた奴はね、多分、破天荒で気がよくて女好きでそれでいてある部分神経質、もてないわけじゃないが本命には振られてばかりなんだろーなあ。そんでもって」
ニッとカカシは猫のように目を細めた。
「俺と同じ匂いがする」
肉食獣のような生臭い笑みを浮かべたカカシにイルカはぎくっと身を竦ませた。
「忍じゃあないかもしれないが侍か渡世人か、そういう命のやり取りがどういうものか肌で知っている奴でしょう」
ねえ、先生。
カカシが身を乗り出してイルカに言い聞かせるように囁いた。
「こんなの、ただの娯楽作品だって書いてる奴も心の底では読者を馬鹿にしているのかもしれない。相手の気持ちよくなるような文章を並べ立てて巧く騙している気なのかもしれない。だけど、その言葉の陰から見え隠れする何かを見抜いて読んでる奴だっているんじゃないかな」
そういうの大好きなんですよとカカシは言った。様々な思惑に包み隠され仕舞い込まれた人間の、それでも匂い立たずにはいられない本質を嗅ぎ出すのが好きなのだ。
「アンタは俺達を巧く騙しているつもりかもしれないが、俺は騙されない。」
カカシは深くイルカの目を覗き込む。あなたも忍びなら分かるでしょう、と笑う。
「そう思ってね、愉快になるんですよ」
この男は本当にタチが悪い。
イルカは改めてそう思った。

話しているうちに冷めてしまった珈琲を飲み干して、イルカは茶店を出た。
陽は傾きかけて少し風が冷たい。
「今日の夕飯はなんですか?」
一緒に店を出たカカシはイルカの持つ買い物袋の中身が気になるらしく、身を傾けて覗こうとしている。今は猫と言うより鼻面を突っ込んで嗅ぎ回る犬のようだ。本当にこの人、俺のこと餌係と思ってるんじゃないのか。
「今日は豚肉とほうれん草の冷しゃぶです」
それにニラと卵の吸い物に、昨日の残りの粉ふき芋にひじき豆だ。
「へー」
口に出しては言わないが、自分にも食わせろ、食わせろと銀の髪がふさふさ揺れる。
ふー、と息をついてからイルカは言った。
「家にきて一緒に食べます?」
「え!?いいんですか?」
なんだか悪いですねえ、そう言いながら遠慮しますとは言わない。上忍て押しが強いんだよなあ。職場で知っていたはずなのに、つい踏み込む隙を与えてしまう。
この人が自分に踏み込むつもりがあるのかないのか分からないが。
なんであんな話をしてしまったんだろう。
軽い足取りで機嫌良さそうに歩く抜け目のない目をした男。こんな男を前にして、どうして昔の彼女のことなんか考えるんだろう。無意識に比べているみたいに。牽制するみたいにあんな話をするなんて、ちょっと自分はおかしい。それで逆に言いくるめられていれば世話はない。
再び、はあ、と溜息をついたイルカにカカシが振り返ってにこりと目を細めた。
「食事のお礼に俺が美味しいお茶、煎れてあげまーすよ」
----まあ、いいか。
手にした文庫本の主人公がハッピーエンドに辿り着くのを読み終えたら、自分も誰かと幸せになることを考えよう。

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