#17 真夜中東坡肉

商店街の中程の赤いビニールの庇が肉屋の目印だ。
店先で腕組みをしてイルカは冷蔵ケースの中に並べられた肉の塊を睨んでいた。
「豚のバラ肉一キロ」
イルカの声に店主がケースから肉の塊を取り出し、上に置かれた緑色の秤に載せた。
数グラムオーバーした分をおまけにしてくれて、店の名前の入った手拭いもつけてくれた。
長葱は家にある。同じ並びの店で生姜と八角とおからを買ってイルカは家に帰った。

家に着くとイルカはベストと額宛を脱ぎ捨ていつもの壁のフックに引っ掛けた。
それから買い物袋に入れっぱなしの材料を流しの横の調理台上のスペースに並べる。
竹の皮に包まれた豚バラ肉の塊をまな板の上に載せる。これだけ大きい塊だと豚の姿が想像できるような形をしていてちょっとぎょっとする。縦に三等分する。
フライパンに油をひき、豚バラ肉を焼きつける。
煮込んだ時に旨味が逃げないように焦げ目がつくくらいだ。
それから油の部分を下にして蓋をして20分ほど炙って油を落とす。
フライパンの蓋の間からもくもくと香ばしい湯気と煙が吹き出すのがイルカのほつれた前髪にかかる。換気扇をつけ忘れていた事に気がついて壁のスイッチを手探りで「入」にする。
窓の隙間からか細い悲鳴のような音が上がる。イルカは台所を通り抜け奥の間の窓を開けた。ふぉん、と呻りを上げてファンが室内に籠もった白い霞を排気してゆく。夕暮れの涼しい風が室内を通り抜けた。
肉を炙っている間に大鍋に水を満たし、長葱、生姜、おからを入れて沸騰させる。そこへ炙った肉を入れて20分煮る。
一度、取り出し肉を洗い、周りに着いた焦げや油を落とす。
鍋に老酒、醤油、砂糖、長葱、生姜、八角を入れ、再び湯を沸かし肉を入れる。
蓋をして煮込む。
イルカは食卓の椅子を引き寄せてコンロの前に座った。椅子の背を前にして背もたれの板を抱え込むように肘をつく。目の前にぶら下がる電気の紐を引いて灯りを消した。
暗がりに青いガスの炎だけが周囲を照らし出す。
その青い光に照らされながらイルカはじっと鍋を睨みつけた。
「なんだよ、チクショウ」
その晩は納豆と冷や飯と昨日の残りのみそ汁に卵を落として夕飯にした。

「なんか、おまえ、いい匂いするなあ」
次の日、任務受付所へ行くと同僚がくんくんと鼻を鳴らして近づいてきた。
「そうか?」
「うん。旨そうな匂い」
しつこく周囲をうろうろするのを放ってイルカは受付の席に着いた。
三代目は来ておらず、任務を受けに来る忍びの数も心なしか少ない。
「この時期はいつも人手が足りなくなって困るな。今回はうちでやるから更に大変だよ」
「よその里の連中も里内に入ってくるからなあ。警備も厳重にしなくちゃならないし、依頼任務に回せる人員なんて殆どいないだろ」
受付内はその話題で持ちきりだ。
「今回はどのくらい昇格するかな」
「中忍以上が増えてくれると任務の割り振りも楽になるからなあ」
「でもなりたての中忍を任務に慣れさせるのも結構大変だよ」
「今は昔みたいに若い奴をいきなり重要任務に放り込んだりしないからゆっくり育てていけるけど、中忍って階級がついたらそうも言っていられないからな」
「まあ、あの試験をくぐり抜けてきた奴らなら大丈夫だろ」
今回の中忍試験が木の葉で行われることは何年も前に決定されていたことだった。そのための準備は整えられてきていたが、いよいよ試験の日が近づいてくると里内は急に慌ただしくなった。
下忍指導をしている上忍師達の元へ一斉に式が飛び、受験を志願する外国の忍び達もぞくぞくと入国している。三次試験には各国の大名や君主が里入りするとあって警備は厳重を極める。見慣れない制服を着た試験官達が本部棟や試験会場となる演習場付近に見られるようになり、警備のため特別上忍が里内に普段よりも多く配備される。
まるで戦時下のような物々しさだ
アカデミーでの指導を主な職務としているイルカは直接中忍試験に関わる事はないのだが、試験中は厳戒態勢が布かれるため間接的に仕事への影響は出る。シフトを組み直し警備の任務に就くこともある。
もう子供達は上忍師から出願書を受け取っただろうか。

家に帰ると鞄を放り出し、冷蔵庫を空けた。
昨夜、一時間ほど煮て冷蔵庫の中で一晩寝かせた豚肉を取り出す。こうすると肉が引き締まって切る時に身が崩れにくくなるのだ。
煮汁の入った鍋の蓋を開けると浮かんだ油が白く五ミリほどの厚さに固まっていた。おたまで器に掬い取る。肉を一切れ切り取って残りを再び鍋に入れコンロに火をつけた。
それからイルカはタマネギを刻み、フライパンを熱して先ほど掬い取った豚の脂をひくとタマネギを放り込んだ。
ジャッと油が飛び、タマネギ独特の匂いが台所に満ちる。換気扇のスイッチを入れ、菜箸で軽くフライパンを掻き混ぜると、先ほど切り取った豚肉を細切れにして加える。
料理台に置きっぱなしだった老酒の瓶をあけ、洗い物の入った籠からぐい飲みをとって少しだけ注ぎ込む。
今朝、出勤前にセットしておいた炊飯器から炊けている飯を一皿分取り、タマネギと豚肉に混ぜ込む。老酒を舐め舐め、木のしゃもじでさっくり混ぜて焦げ目をつけると、冷蔵庫からレタスと卵を取り出した。レタスを水で洗い適当にちぎって炒めた飯に混ぜる。その上から卵を割り入れ軽く掻き混ぜて出来上がりだ。
市販のスープの素をマグカップに入れ、湯沸かし器から湯を注いで即席のスープを添える。
その日のイルカの夕飯はチャーハンとわかめスープと白菜漬けだった。蓋を落とした鍋がことことと湯気を立てる音を聞きながら食べた。

四限目は体術の時間だった。校庭で準備運動をして体を温めた後、組み手のお手本を見せるために朝礼台の前に生徒達を集める。
「相手の肘を持ち上げて脇に空間を作る。こう、だ」
イルカは手本を見せるために生徒を二人、朝礼台の前に呼び出して向かい合わせて立たせた。生徒の腕を取ってもう一人の肘の下をぽんと弾く。
「腕をくぐるように頭を突っ込んでタックルするんだ。こっちの腕を掴んだ手はこう、脇を締めてもう一方の手を股に入れる。肩で押して、相手が浮いたら投げる」
実際に二人の生徒に投げ技をさせてみる。お手本の二人はクラスでは体術がよく出来る子達だからすぐに要領を飲み込んでイルカの言ったとおりに投げ技をしてみせた。
「投げられる方はちゃんと受け身をとること!無茶はしない。相手の動きに合わせるんだ」
ぽてん、と投げられた木の葉丸の手を引いて起きあがらせてやりながらイルカは大きな声で生徒達に言った。
「ん?」
自分の胸に顔を埋めてきた木の葉丸にイルカは不審な顔をした。今ので怪我でもしたのだろうか。
木の葉丸は小さな丸い目でイルカを見上げると不思議そうな顔で
「うまそうな匂いがするぞコレ」
呟くと更にくんくんとイルカの胸や腹に鼻をすりつけた。
「どれどれ」と他の子供達も一緒になってイルカの周りに群がって匂いを嗅いでは「先生、おいしそうな匂いがする!」「いい匂い!」ちゅんちゅんと囀りだす。
「コラ!今は授業中だぞ!」
「先生、いいにおいー!」
「お腹すいたー!」
「先生、一人でなんか美味しい物食べたんでしょー」
ずりー!ずりー!と連呼し始めた子供達を掻き分けてイルカは怒鳴った。
「いいかげんにしろ!隣の者と二人一組になって投げ技の練習!始め!」
イルカの一喝に子供達は渋々イルカの周りから散った。ちょうどお昼前の時限だったから皆、腹ぺこだったのだろう。グーグーと腹を鳴らしながら投げ技の練習を始めた。
イルカはくんくんと自分の袖の匂いを嗅いで首を傾げた。

職員室で「そろそろ上忍参りが始まる頃ですねえ」と隣の席の若い教師が言った。
「今の時期は木の葉神社は繁盛しますね」
向かいの席の年配の教師も笑いながら答える。
上忍参り?イルカが尋ねると二人は笑って、
「中忍試験に下忍を出願させた上忍師の方々が、受験合格を祈願しに木の葉神社にお参りに行かれるんですよ」
「上忍の方々は人の目に立つの嫌いますからね。平日の昼間とか夜中とか、人気のない時を見計らってお参りするからなんか、変なんですよね」
「人が来た気配はないのにお賽銭と絵馬だけ増えてるって、神主さんが首を傾げてましたよ」
「へえ。上忍の方々でも神頼みなんてするんですね」
「上忍なら尚更、自分の努力じゃどうにもならない壁を知っているんじゃないですかねえ」
年配の教師の言葉にイルカはどきっとした。六歳で中忍になったような早熟な天才に壁なんてあったんだろうか。
「そうそう、それで、お参りに来た上忍同士が鉢合わせした時とかもおっかしいんですよ」
若い教師が含み笑いを漏らしながらぱんぱん、とイルカの肩を叩いた。
「なんか意識し合ってんのになんでもないような顔をしてね。普段、どんな時も表情を変えない上忍達がこの時ばかりはぎくしゃくして面白いですよねえ」
面白いなんて失礼なことを言うんじゃない、といいながら年配の教師も微笑んでいる。
「それぞれ子供達に思い入れして下さっているってことだ。ありがたいことじゃないか」
アカデミーの教師達にとっては卒業しても、どんなに時が経っても子供達は自分の大切な生徒だ。そう思っている。だけど、
---アイツらはもうアナタの生徒じゃない
イルカは俯き、ぎゅっと拳を握った。
なんかいい匂いしますね。そうですね、誰かのお弁当でしょうかね?教師二人が首を傾げている横でイルカは思い詰めた顔でじっと項垂れていた。
アカデミー本部に中忍試験受験者の名簿が届けられたのはその日の夕方だった。

中央棟の中忍試験運営本部はさながら戦時中の作戦本部のように殺気立っていた。試験官の制服を身につけた選りすぐられた中忍以上の者達が足早に行き交い、式が飛ぶ。
試験問題の流出を防ぐために、一次試験の担当官と二次試験の担当官は別々の部屋に配備されている。一次試験はペーパーテストであるため情報の流出には特に気を遣う。部屋の前を通っただけでイルカはドアの前の警備忍にじろじろと見られた。
居心地の悪い思いをしながらイルカは廊下の奥の二次試験の責任者であるみたらしアンコ特別上忍の部屋に向かった。
ノックをすると「はいよ」とおざなりな返事が返された。
ドアを開き中にはいると詰めている中忍が何名かおり、奥の机に書類を広げてみたらしアンコが座っていた。
「お忙しいところに申し訳ありません」
イルカは丁寧に頭を下げた。
「アカデミーで教師をしております、中忍のうみのイルカと申します」
あー、はいはい、とアンコは視線を上げ
「ああ、お前、覚えてるよ。はたけカカシに喧嘩を売ってた」
イルカの顔を見た途端、みたらし特別上忍は愉快そうに口を歪めた。その凄味のある笑みにイルカは少し身を引いた。
「あのスカした男が珍しく怒ってたねぇ。火影の面前で血の雨が降るかと思ってドキドキしちゃったじゃないよ」
ざーんねん!とアンコは無邪気に言った。
………俺ってそんなに恐ろしいことをしたんだろうか。
イルカはちょっとだけ自分を振り返った。
「言っとくけど一度出願したもんはこっちでも止められないよ。まあ、一次で落ちるかもしれないけどね」
アンコはパラパラと出願者名簿を捲って今年下忍に昇格したルーキー九人のページを出した。
「お前の教え子ってこいつらかい?出願書に問題はなし。正式に受理されてる」
アンコは手に持ったペンの尻でトントン、と書類を叩いた。イルカは目を伏せ、そのペンの先を見た。紙切れの上で何人もの忍び達の命運が踊っている。受付で慣れきっていることが、子供達の事だと思うだけで重たく痛々しい。
「彼らが自分の意志で試験を受けるというのなら、私に止める権限も資格もありません」
もう彼らは自分の生徒ではない。それは事実だ。だから、せめて。
「第二次試験の合否通達者に俺も加えて下さい」
イルカはぐっと眉間に力を込めた。
「あいつらの力は私が一番知っています。どうせ無理なら私が引導を渡したいんです」
そう言い出すイルカをアンコは顎に手をつき上目遣いに見上げた。
「そりゃあ、その役目は警備や試験管以外の中忍に任命するのが普通だけどさ」
手に持ったペンの尻でこりこりと束ねた髪の中を掻いて不思議そうな顔をイルカに向けた。
「…………そんなにこだわるならそいつらのチームはお前に任せるけど…わざわざ恨まれ役を買って出るとはね」
机に肘をつき身を乗り出して特別上忍はイルカの顔を覗き込む。
「ありがとうございます」
イルカは頭を下げ低く礼を言った。
「…でも、こいつらあのカカシのとこのでしょ…あいつが推薦した奴らなら私も期待してるんだけどね」
ぱらり、と出願書類を捲ってアンコは呟くように言った。それからふと顔を上げ、イルカの顔を見るとつけ足した。
「お前、いい匂いするな」

里の中を中忍と特別上忍が忙しなく行き来し、上忍達は手持ちぶさたにそわそわしている。常にはない光景が本部棟の中でも展開されていた。
みたらし特別上忍への直訴が通って、イルカは人心地着いた思いでゆっくりとアカデミー棟へと向かった。途中、上忍待機所の前を通ると落ち着きなさげな上忍達がうろうろしているのに出くわした。
あの人は下忍担当官になって五年目の日渡上忍、あの人は三年前に卒業生を預けたこのま上忍。皆、自分の部下達が中忍試験に合格するかどうかで気もそぞろなのだろう。
「お前さん、いい匂いするなあ」
すぐ後ろから声がしてイルカはぎくっと体を強ばらせた。
「アスマ先生は相変わらずヤニ臭いですね」
首だけ振り返りぼそりと返した。
「なんだ、まだ根に持ってんのか?」
「根に持つなんて…!」
「喧嘩売ったのはカカシだぞ」
アスマは肩をすくめると銜えた煙草を手に取り、開いた窓に向かってふーっと煙を吐き出した。
別に喧嘩を売られたからとかそんなんじゃない、子供達を預かる身で軽率な判断は禁物だと言っているのだ。
「まあ、見てなって」
険の取れないイルカにアスマはニッと笑った。
「俺んとこの秘蔵っ子達を舐められちゃ困るよ、先生」
自信満々で嘯いたアスマの顔にイルカはある一言を思い浮かべた。
---上官馬鹿。
イルカも大概、教師馬鹿だと言われているがこの部屋で落ち着かなさげにうろうろしている上忍達も似たようなものなのかもしれない。
強面揃いの上忍達が、そんなことってあるんだろうか。ガイはともかくとして。
「なんか美味しそうな匂いがするんだけど…」
部屋から顔を出した夕日紅がさらりと豊かな黒髪を掻き上げて怪訝そうな顔をイルカとアスマの二人を見た。くんくん、と鼻を鳴らして「酒の肴によさそうな匂いだわね」と美人が台無しな言葉を吐く。
「お前、もうちょっと色気のあること言えねぇのかよ」
「あら、色気なんてありあまってるわよ」
そういって紅は見せつけるように両腕を頭の後ろで組み、体のラインを二人の前に晒してみせた。
うっ。
さすが上忍くのいち。
わざとだと分かってはいるのに目の当たりにするとクる。
一瞬、紅の胸元や剥き出しになった左腕の内側の白さに目が釘付けになったがイルカは慌てて目を逸らした。その横で、へー、ほー、ふーん、とアスマが気のない音を上げている。
「イルカ先生からだわね」
更に紅はイルカに近づいてくんくんと匂いを嗅いだ。
「く、紅先生!」
「この匂いは~…」
「おお!イルカじゃないか!」
聞き慣れた大きな声が廊下の向こうから聞こえた。イルカが振り返るとガイが廊下の向こうからぶんぶんと手を振りながら歩いてきた。その手に赤や金の派手なものをぶら下げている。なんだ、あれ。お守り?
「お百度を踏んできた。これで絶対うちの班は合格だ!」
ガイがニコニコと眩しい笑顔で手にしたお守りを見せた。合格祈願と書いてある。
「おまえがそんなに張り切ったって意味ないだろーよ」
「なに、気は心だ!お前達も拝んできたらどうだ?カカシも神社にいたぞ」
「え!?」
ガイの言葉にイルカはつい驚きの声を上げた。ガイ、紅、アスマがイルカの顔を見る。
「あ。すいません。なんだか意外で…」
上忍に取り囲まれてイルカは小さくなった。
「まあ、奴にそんな情緒があったとは確かに驚きだな」
「あたしも出願前に全員で行ってきたわよ」
行ってないのアスマだけじゃないの?と紅が白い目を向けるが、アスマは「面倒くさい」と一蹴した。
紅の言葉でイルカは神社の境内で手を合わせて一心に祈っている八班四人の姿を思い描いた。きっと一生懸命にお祈りしただろう。中忍になれますように、紅先生の期待に応えられますように。彼らはまだ中忍試験がどんなに過酷なものか知らない。そう思うとイルカの胸はまたざわめいた。
彼らは今年の春、アカデミーを卒業したばかりの子供なのだ。演習中に無茶して木から落っこちたり、術を失敗して服を焦がしたり、教室でみんなにからかわれてベソをかいたり、実力考査のたびに赤点とって補講したり、たった三ヶ月だ。卒業試験から三ヶ月しか経っていない。それまでイルカが見てきたあどけない顔をした彼らは今、命がけの試験に挑もうとしている。
そう考えると居ても立ってもいられない気持ちになる。
眉を曇らせたイルカに紅がじろりと視線を寄越した。
「イルカ先生が心配性なのは知っているけど、」
ぱさりと音がしそうなほど長い睫に縁取られた大きな瞳がイルカを見据えた。
「私は自分の判断が間違っているとは思わないわ。彼らには中忍に昇格出来るだけの技術は十分に身につけさせたつもりよ。それぞれの家にも了承をとったわ」
肉親が試験を受けさせても構わないと言うのにあなたが反対する理由があるの?そう紅に問われてイルカは答えに詰まった。
火影の前でカカシと口論になった時にはカカシを諫めてくれた紅だが、内心はカカシと同じだったのだろう。口出し無用と暗に言われてイルカの胸はひりついた。
「しかし、彼らはまだ下忍になったばかりです。もっとじっくり…」
「力のある人間に、それを発揮する機会が与えられないのは不幸なことだと私は思うわ。実力以上のものに挑まなければ人は成長しないのよ」
畳み掛けるように言葉を継いだ紅にイルカの語尾は打ち消された。
「強い忍びを育てることが私たちの役目。違うかしら?」
紅は卓抜した幻術の才を持ちながら長らく上忍に昇格することが出来なかった。実力があっても時と運に恵まれなければそういうこともある。自分の経験から彼女は早くから部下達に中忍試験を受けさせるための準備をさせていたらしい。
紅の受け持つ八班は下忍ながらCランク任務を三回こなしている。そのことからも他の二班よりも厳しく鍛えられていることが窺えた。
キバはイルカの受け持っていたクラスの中でも抜群の身体能力を持っていた。ヒナタは体術が優れていたし、白眼という血系限界も備えている。シノも生まれた時から仕込まれた虫使いの能力と冷静沈着な性格で危なげなく見えた。
八班の三人なら大丈夫なのかもしれない。
「あの子達は潰れませんか?」
「潰れないわよ」
痛ましい顔つきで小さく尋ねたイルカに紅は平然と答えた。
上忍である紅がそこまで考えて下した判断ならばイルカには何も言うことは出来ない。
口を噤んだイルカに、ふ、と紅は笑んで眼差しを柔らかくした。
「でもそんな風に心配してくれる人が肉親以外にもいるっていうのは、あの子達にとっていいことだと思うわ」
それから紅は物思わしげに長い睫を伏せた。
「今の時代は平和になったっていうけど、強くならなければ行き所がないのは昔と変わらないもの」
力がなければ肉親にすら見捨てられる。それが忍びの本来だから尚更、イルカのような存在は子供達には必要だろうと紅はイルカを慰めた。
「でも、カカシ先生は---」
イルカの口から出た名に紅は肩を竦めた。
「カカシの真意はカカシにきくのね」
深緋の瞳が思いのほか優しい光を湛えていた。しんみりした空気が流れる中、傍らでイルカと紅のやり取りを見守っていたガイがふんふん、と鼻を鳴らした。
「なんか、いい匂いがするな?」

 

家に帰って鍋を覗くと白い油が煮汁の表面に厚く固まっていた。
煮ても煮ても出てくる。
イルカはそれを丁寧に掬い取り、コンロの火をつけた。換気扇のスイッチを入れ、椅子を引き寄せると背もたれを前にして腰掛けた。
ぼんやりとガスの青い火を見つめる。
その年にアカデミーを卒業したばかりのルーキーが中忍試験を受験することは珍しいけれど、まったく例のないことではない。特に優れた子供ならばアカデミーも繰り上げで卒業になり幼いうちから実戦に投入されることも過去にはあった。カカシのように六歳で中忍になった者も少数とはいえ存在する。
それが見直されるようになったのはエリートととして知られるうちは一族の中でも出藍の誉れと噂されたうちはイタチの凶行による一族の滅亡からだ。
ただ一人の生き残りであるうちはサスケもまたアカデミーでは群を抜いて優秀だった。あの事件の起こる以前ならば十にならぬうちに実戦に投入されたかもしれない。
七班は班としての実力をサスケ一人が引き上げているようにイルカには思えた。
カカシは自分と同じ早熟の才能を磨くことに気を取られて他の二名の実力を読み違えているのではないだろうか。
---あのうちはサスケも一緒なんでライバル視してはギクシャクしてますけど…結果として実力はバリバリ伸びてますよ…
受験者推薦の直前にカカシが言った言葉だ。
知らずイルカは自分の背を擦っていた。そこにはあの子供を庇って出来た傷がある。
メンバーにナルトが混ざっていなかったら、自分はあんな風に上忍に噛みついただろうか。
或いは相手がカカシでなかったら。
ふるりと首を振り、イルカは椅子の背に顎をのせて溜息をついた。
ぐつぐつと煮詰まる肉はまるでイルカのようだ。
不意にアパートの隣の部屋からバタバタと音がして、隣の者がドアを開けるのが聞こえてきた。と思う間もなくドンドンとイルカの部屋の玄関を叩く者がある。
「イルカ!お前、こないだからナニいい匂いさせてるんだ!?」
隣に住んでいる中忍の声だ。
イルカの住むアパートは里が用意した単身者用の中忍宿舎だ。隣の者も本部勤務の顔見知りだ。独身の男同士、時々一緒に飲んだりする。
「ナニって、夕飯だよ」
ドアを開けると戸口にいた男はぐいと身を部屋の中に乗り出してきた。玄関を入るとそのまま台所だ。男はコンロにかかっている鍋を見てくんくん、と鼻を鳴らした。
なんだかこのところ、みんな一様にイルカの匂いを気にしていたがこれのせいか。
部屋中に充満した煮物の匂いがイルカの忍服にもベストにも額宛にも染みついているらしい。
そう思っていたら向こう隣のドアもがちゃりと開いて、同じく中忍仲間が顔を出した。
「俺もすっごい気になってたんだよ。旨そうな匂いがするから」
「俺もー!」
下の階からも声が上がる。
なんだ、なんだ、と宿舎に住む若い中忍が五人ほどイルカの部屋の前に集まってきた。
そんなに匂ってたのか?
忍びは確かに一般人と比べて鼻がきくけれど、いつも料理をしている時はこんなに気にされないのに。
「東坡肉だよ。まとめて作っておこうと思って」
「おまえ、まめだなあ」
嫁にしたいよ、と一人が真面目顔で呟くと他の男達も「うん、うん」と実感のこもった同意を示した。
「飢えてんなあ、おまえら」
同じ独身、彼女ナシの境遇のイルカは思わず同情してしまった。嫁に行く気はさらさらないが。
「はー。ビール飲みてぇな」
「今が試験中じゃなかったらなぁ」
「おい、なんで食う気満々なんだよ」
遠慮なしに上がり込んできた中忍仲間達にイルカは慌てた。
「こんないい匂い振り舞といて食わせねー気か?」
一人の言葉に残りの者も「うん、うん」と頷く。
こういう時だけ結束しやがって。
「それは俺の一週間分の食料なんだよ!」
「はあ?なんで?」
厳戒態勢っていっても店は開いているし、買い物に出られないわけじゃない。疑問を口にする仲間達にイルカは「だから…」と口籠もる。
「二次試験の合否通達者に任命してもらったんだ。明日からいつ呼び出されるか分からないから火を使う料理とか出来ないだろう」
だからこうしておかずを作り貯めしていたんだとイルカは説明した。
「そんなの、本部棟の食堂で食えばいいじゃないか」
もっともな意見を言われる。
「外食は金がかかる」
「本部の食堂なんて、一食分計算したらあっちのが安いくらいじゃないか。まあ、味は断然こっちの方が上だけどな」
「だから!勝手に食べる準備を始めるなよ!」
イルカの部屋の棚から人数分の皿を持ち出し、いそいそと鍋をちゃぶ台の上にもっていく男達にイルカが怒鳴る。「俺、麦茶持ってくるわ」と一人が自分の部屋へ走る。もう一人が「俺、ほうれん草のおひたし作ってたんだ」と飛び出して行く。まったく聞いちゃいねぇ。
優秀な木の葉の中忍達は目標を定めると淀みなく迅速に行動した。
「しかし、おまえもアレだよね。拘るよね、あのガキに」
あのガキというのがナルトを指すことを察してイルカは友人をきっと睨んだ。友人達は慣れているのか肩を竦めただけだった。
いつの間にか卓袱台を囲んで、イルカの三日間の成果である豚の角煮を取り囲んでの夕食会になっていた。なんでこうなるんだ、と肩を怒らせるイルカを取り囲んだ友人達が、まあ、まあ、といなす。仲間仲間の一人が箸を持った手で頬杖をついて、はー、と溜息を落とした。
「おまえがはたけ上忍に噛みついた時は正直、肝が冷えたぜ」
「でも、あれは…!」
あれは、カカシが悪いのだ。
「卒業してまだ三ヶ月の子供を中忍試験に推薦するってありえるか!?そりゃあ、サスケは優秀だ。だけど---」
ナルトは。
言いだしかけた言葉を飲み込んで、イルカは唇をかんだ。やっぱり拘っているのか。
「それではたけ上忍への恨みを込めて夜な夜な豚肉を煮詰めてたってわけか」
おまえってそういうところあるよな、妙に納得した顔で言われてイルカはムスッと黙り込んだ。そういうところってなんだよ。
「寒さ堪えてセーター編みそうな?」
「なんだ、それは!?」
「なんか、妙にけなげっていうか」
「幸せになれんのかなあ、こいつ、っていうか」
「縁起の悪いことを言うな!」
まあ、まあ、まあ、イルカちゃーん、かんぱーい!麦茶で酔っぱらったわけでもなかろうに調子よく中忍仲間達はコップを空ける。
「そういうのはこうやってパーッと食っちまった方がいいんだよ」
イルカの二つほど先輩の男が言った。
なんだ、訳知り顔でずかずか入り込みやがって、とムカついたのは確かだが心配されていたのだとうっすらと感じてイルカは黙った。
試験が始まって皆、神経を尖らせている。いつもは気にしないような匂いが気になる程度には。そしてみんな少しハイだ。
大きな何かが動き始めているのを感じている。
他里の忍びや大名達が里へやってくる。それに加えて九尾の器の子供が本格的に忍びとしての力をつけ始めているという事実が周囲に警戒心を抱かせる。
まだあんなに小さい、子供なのに。
まだ早い。そんな目に晒され、試されるにはまだあの子は幼すぎる。
そう思うのにイルカには止めることが出来ない。
カカシならそれを分かってくれると思っていたのに、自らナルトを渦中に放り込むようなことを言い出すなんて。
---口出し無用。
そう言った時のカカシの顔を忘れられない。
「………落ち込んできた」
ぼそりと言ったイルカに他の者達が慌てる。
「ほら、肉を食え!肉を食うと幸せ物質が脳から分泌されるんだぞ!」
元々、俺の肉だよ、チクショウ。
皿に取り分けられた肉を箸で突き回して脂身を刮げ取る。煮ても煮てもまだ出てくる。
「圧力鍋があったら簡単に作れるんだけどなあ」
呟いたイルカに答えは返ってこず、なぜか場がしんと静まりかえった。
なんだ、と顔を上げると一同揃って空を見つめ何かの気配を探っている。
コンコン、とドアが叩かれた。
また誰か匂いにつられてやって来たのか。こうなればもう誰が来ようと同じだ。イルカはのっそりと立ち上がりドアを開けた。
「コンバンハ。いい匂いですね」
ドアの向こうに立っていたのはイルカの一番会いたくない相手だった。

「ナニやってんですか、アナタ」
部屋の中を覗き込んでカカシが呆れた声を出した。卓袱台に置かれた鍋とほうれん草のおひたしの盛られたステンレスのボール、だが、人数分あった取り皿とコップはなくなっており、それぞれそれを手にしていたはずの中忍達の姿も綺麗に消えていた。
この状況で俺を一人残して逃げるか!?
中忍達の見事な逃げ足にイルカは目眩がした。
カカシとイルカが現在、険悪であることは一定以上の階級の忍びで知らぬ者はない。みんなの前で喧嘩ふっかけたからな。
「何のご用件でしょうか?」
イルカは内心の焦りを押し隠して事務的な口調で尋ねた。
「用件があるのはそちらじゃないんですか?紅がアナタが俺を捜していたと言っていたんですが?」
紅先生、恨みます!
「わたくしから申し上げることは何も---」
「みたらしアンコ特別上忍から聞きました。あなた二次試験の合否通達者に立候補したそうですね」
「----」
クソ。なんでこんなに耳が早いんだ。さすがは里の中枢を担う最強の上忍様だよ。
イルカは答えずに押し黙った。
頑なな態度のイルカにカカシも苛立たしげに溜息をついた。
馬鹿な話なのだが、カカシの苛立ちを感じてイルカは泣きたいような気持ちになった。生徒達のために自分はカカシと対立した。卒業させたとはいえ教え子達が彼らに適した環境で忍びとしての力を養っていけるよう気を配るのはアカデミー教師として当然のことだとイルカは思っている。自分はあの場で正当な抗議をしただけだ。たとえ相手が上忍であっても子供達のためにならないと思えば反対するのがイルカの中の常識だ。
だが、それとは別にイルカの心の柔らかい部分が痛んでいる。
「そんなに俺が信用できませんか?」
普段ののんびりとした口調とはまるで違う低い声でカカシが言った。
「冗談でも、潰すなんて言葉を使う人が---」
「本当のことでしょう、それは。この試験であいつらは潰れるかも知れない。そんなの誰にも分からないでしょーが。そうなっても仕方がないって俺は思ってますよ」
カカシの言葉にイルカは息を呑んだ。
「あなたがそんなことを言う人だとは思いませんでした!」
「俺はこういう人間ですよ」
しれっと嘯いてカカシはポケットに手を突っ込んだまま、イルカの前にだらりと身を晒した。挑発されていると分かってもイルカは振り上げた拳を下ろすことが出来なかった。
イルカの愚直な打撃はやはり上忍には届かず、あっさり腕を取られ投げ技で返された。
さすが、お手本通り。いや、技の切れと早さはそれ以上。腕一本でいいようにつっころがされた。
「上忍に手をあげて、どうなるか分かってるんですか?」
「性根の曲がった奴には拳骨くれてやるんです!」
床に押さえ込まれマウントポジションを取られたままイルカは真っ赤な顔で叫んだ。ふぅ、とカカシが耳元で吐息を吐く。
「アナタさ、」
声音が微妙に弱くなっていることに気がついてイルカが顔を上げると、カカシは困惑した様子でイルカを見下ろしていた。
「よく今まで忍びとしてやってこられましたね。仮にも中忍が…おまけにそんないい匂い振りまいて、ふらふらして、」
躊躇いがちにのばされた手がイルカの首元に置かれた。
「お仕置きしてやろうか---」
それはこっちの科白だ、馬鹿野郎!歯をむき出して唸るイルカに、はー、とまたカカシは溜息をついた。
「鈍いのに人望だけはありますよね。気配が、一、二…五人。アナタにこれ以上何かしたら明日から総スカンだろうな」
力なく笑ってカカシはイルカの上からどいた。
「これ食べていいですか?」
卓袱台の前に胡座をかいて豚の角煮の入った鍋を指差す。
「はな、話はまだ終わっていません!」
イルカはカカシの横に座って詰め寄る。
「上忍師になるって事は、部下を好きなように扱っていいってことではありません!アホな上官のせいで犬死になんて冗談じゃない!!」
「アホ…」
カカシがぐんにゃりと背を曲げた。だが思い直したように立ち上がると台所から予備の箸を持ってきて鍋の中を突こうとする。その手を払いのけてイルカは叫んだ。
「あなたには食べさせません!」
「何言ってるんですか、他の男に食べさせて俺に食べさせないなんて許されませんよ」
どういう理屈だ。カカシはイルカの手をかいくぐって肉の欠片をつまむと、ぱくっと口に入れた。
ひどい。あんまりだ。
イルカは悲嘆に暮れてがっくりと床に突っ伏した。
「あんたは俺からナルトを奪った上に、東坡肉まで…」
「ほら、やっぱりナルトだ」
勝ち誇ったようにカカシが言った。ムカつく。
「とりあえずナルトと角煮を同列に扱うのはどうかと思いますよ」
「いいんです!あいつも俺のことラーメンと同列に扱ってますから!」
「お熱いことで」
カカシはもう遠慮無く東坡肉をぱくぱくと口に運んでいる。覆面は外していないのにどこからどうやっているのか口の中に消えていく。
「俺は試験を受けるかどうか、決めるのはサクラだと思っていたんです」
ちょっと脂きついですね、と顔をしかめてカカシは傍らのペットボトルの麦茶を手に取った。カカシの思いがけない言葉にイルカはカカシの顔を見て動きを止めた。
「ナルトは目の前に出されたものには何にでも飛びつくし、サスケだって似たようなもんだ。あのチームには二人の後ろから冷静に物事を判断する目が必要だ。それがサクラです」
まあ、サスケが絡むと公正とは言い難い事もありますが、とカカシは肩を竦めた。
「サクラは他の二人よりも体力や技は劣っています。でもその分、正しく自分の弱さを把握している」
だから七班の受験を決めるのはサクラなんだとカカシは言った。
「俺でも、あなたでもなく、ね」
カカシが付け加えた言葉はイルカの胸にズンときた。
「俺は彼女の判断を信じます」
カカシはサクラを「彼女」と呼んだ。イルカの中でサクラはまだ「あの子」だ。
子供達の中の一人に過ぎない、か弱くて小さな守るべき存在の女の子。
いつの間にかいのと決別して、強くなりたいと、私は私なんだと足掻いていた彼女を知っていたはずなのに。
イルカはゆっくりと床から体を起こした。正座をしたまま唇を引き結んで畳に目を落とす。その横でカカシは東坡肉とほうれん草のおひたしをバランスよく食べていく。
「それに俺、前もってイルカ先生には言ったじゃないですか」
「何をですか?」
「ナルトはアナタに追いつくくらいに力をつけてますよって」
え、と声を上げてイルカはカカシを凝視した。
「だから中忍になれるくらい力がついてるって、言ったでしょ」
あれって、そういう意味だったのか?!中忍の俺に追いつくくらいって言いたかったのか!?適当なヨイショして人を嬉しがらせておいて、後で冷たく突き放すなんて底意地の悪い真似しやがってと思っていた。
「ほら、聞いてない」
いや、聞いていた。聞いてはいたけど、あんなんでそこまで普通考えるか?!
「俺は無駄口は叩かないんです」
真面目にそう言った男にイルカはよろっと床に手をついた。本当に、まったくその通りですね、カカシ先生。
あんなに腹を立ててぐつぐつ煮立っていたのはなんだったんだろう。
この男の一言一句で浮いたり沈んだり、周囲に気を遣われて心配かけて、特別上忍には面白がられるし、馬鹿みたいだ。
でも少しだけ、この男のことが分かったような気もする。
カカシは多分、本当に無駄口は叩かないのだろう。冗談なのか本気なのか分からない言葉の裏にいつも真実を覗かせている。トリッキーなくせにストレートだ。
イルカは視線でなぞるように傍らに胡座をかいた男を見た。
「どうしてそんなに急がれるんですか?」
「そういう性分なんです」
いつまでも何かを手の中に入れておくなんて、そんな怖いこと出来ません。
「ナルトとは確かに違うかもしれませんね。アナタとも全然、違う」
そう言って目を細めたカカシは少しだけ寂しそうに見えた。
「---見届けるのがアナタのやり方ならそうして下さい」
ごちそうさまでした、と言い行儀良く手を合わせて鍋に向かって頭を下げると、カカシはイルカの部屋を出て行った。
綺麗に平らげられた卓袱台の上に目をやり、イルカはぼんやりと座り込んでいた。

二次試験が始まって待機の日が続く。
試験官達からは「美味しそうな中忍」と変な通り名をつけられてしまった。みたらしアンコを尋ねた時に漂わせていた東坡肉の匂いのせいらしい。
子供達のことは今、この瞬間も心配でたまらない。
特に、やっぱりナルトの事は心配だ。変化の術すらまともに出来なかったのに、たった三ヶ月で中忍になれるとは思えない。
でも心の底にあった痛みは消えていた。
冷たい言葉を投げられて、見損なったと腹を立てながら、本当はずっとカカシに疎ましがられていたんじゃないかと、イルカの心の底の柔らかい部分が竦み上がった。
どんなに煮詰めても煮詰めてもとろとろとその痛みが滲み出てきて悲しかった。
今は、心を落ち着けて一心に子供達のために祈ることが出来る。
カカシのくれたいくつかの言葉のせいで、浮いたり沈んだり。
イルカはゆるゆると首を振り、目を閉じた。

今は戦っている子供達のことだけを考えていよう。

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