#22 チャパラナイト

今日は土曜日だ。
目を開けると、カカシは明け方に帰ってきてベッドに潜り込んだそのままの格好で布団にしがみついていた。任務明けでシャワーも浴びずに眠っていたから、服や髪についた砂埃がシーツの上でじゃりじゃりする。
カカシの部屋は土足で出入りする仕様になっているが、辛うじてベッドに登ってから履き物だけは脱いでいた。いつも膝下に巻いたゲートルが休息につく前の泣き所なのだが、半端に解けた状態でくしゃくしゃになって布団の中、足首に絡まっている。
最近、夜通しの任務が辛くなった。
上忍師として下忍の指導をしていたので、昼間に行うDランク任務のために体内時計がそちらに順応してしまったらしい。
若い頃は何時間眠ろうが眠るまいが、いつでもすぐに覚醒状態になれた。今は自分で気をつけてコントロールしていないと体の切れが悪い。
枕元の時計を見ると昼前の11時だった。
六時間は眠った。
今日と明日は非番だが、夕方から予定がある。
デートだ。

公開中の映画は、クライマックスの殺陣の場面で主演女優の生乳ポロリが拝めるという話題作だ。
父と兄を殺された剣術道場の娘が男装して、流れ者の剣士と共に仇討ちをするという筋立てで、全年齢向けにしてはきわどい場面がはいるらしい。素直にアクション娯楽作として観に来る客と、スケベ根性で観に来る男どもで劇場は賑わっているそうだ。
カカシが一緒に観に行きましょうよ、と誘うとイルカは「え、」と狼狽えて視線を泳がせた。
「イルカ先生、観たくないですか?ユマの生乳」
「な、なに言ってるんですか!」
イルカはム、と口をへの字に曲げた。こんな事で赤くなるなんて可愛いなあとカカシは内心ニヤニヤした。
受付へ向かう本部の廊下でつかまえたから、周囲には人通りが多い。カカシは声のトーンを落とした。
「俺、今週末は任務明けで非番なんです。イルカ先生も休みでしょ?」
「そうですけど」
「男一人で観に行くと、いかにも、でショ?一緒に観に行きましょうよ」
「………そうですね」
廊下の隅でこそこそと週末の計画を立てた。
十代の童貞のガキじゃあるまいし、スクリーンの女優の生乳ポロリではしゃげるものかと思われそうだが、はしゃげるのが男というものだ。案外、簡単にイルカは話に乗ってきた。

それが今週のあたまの出来事。
カカシは十代の頃に一緒にそんな計画を立てるような友達はいなかったから、それはそれで楽しい。
楽しいが、久しぶりのデート---とカカシは思っている---なのに、そんな映画をセレクトしてしまう自分はほとほと救いがないと思う。幼い部下達をイチャパラ越しにしか見る事の出来なかったように、イルカに対してもどこかで逃げをうっているような気がする。
本当は女が好きなんだと見えるように振る舞えば、イルカが安心するのは分かっている。安心して油断するのを待っている。女は好きだが、イルカはもっと好きだ。そこんとこ、分かっているんだろか。
覆面で覆い隠し、間延びした口調でかわして、でも虎視眈々と狙っている。
腰は引けているくせに、すべてを諦めきれるほど潔くはないのだ。
洗面台の鏡の前で、人差し指で左眼の下目蓋を引っ張って鏡に映った赤い目玉を覗き込んだ。
---おまえがもっと長生きして一緒に友達として過ごしてくれたら、もう少し違った風になれてたかねえ。
赤い目がカカシの顔を見返していた。
---生きてたって、俺と一緒にエロい映画観に行ってくれたかなんて分かんないか。
お互い気の合う相手ではなかった。時が経つほど、彼がどんな人物だったか霞んでくる。良かった事ばかりを思い出す。二十を半ばも過ぎて、未だに十二かそこらの子供の面影に縋っている。
鏡に映ったでかい図体した男を眺めてカカシは自嘲した。
新しい術の開発を始めてから、時折、左眼の視界が翳るようになった。
---おまえまで、行ってしまわないでよ。
それとも長く引き留めすぎたのか。
そろそろ独り立ちしろということなのかもしれない。
---エロい映画は他の奴と観に行けってか。
ぼさぼさの頭を掻きながら大きな欠伸を一つして、カカシはシャワーを浴びるために浴室へ向かった。

 

木の葉の映画館はどんな大作でも必ず二本立てなので時間に気をつけなくてはならない。
メインの映画の余韻を愉しみたければ、そちらが後になるような回から映画館に入らなければならないからだ。さもないと感動超大作の後にB級ホラーを平気でぶつけてくる館主のセンスのお陰で、その日の残りをメロウな気分で過ごすことになる。
待ち合わせした映画館前は週末であることもあって、大層な人出だった。
丸屋根の映画館は、戦前から木の葉の目抜き通りにあって木の葉の娯楽の中心だ。
久しぶりに晴れた空から明るい日差しが降り注ぐメインストリートを、梅雨明けもまだだというのに気の早いことだ、腕や背中を露わにした女の子達が笑いさんざめきながら行き来している。ぽきりと折れそうな細いかかとのミュールをつっかけて器用に歩く。
劇場前の壁に寄りかかってイチャパラを読んでいると、「カカシさん!」と弾んだ息で呼ばれた。
小走りで現れたイルカは
「カカシさんが先に来ているなんて!」
と、驚いた顔をしている。
俺だっていつもいつも遅刻してるわけじゃないんですよ。
心の中だけで言って、カカシはにこりと目を細めた。
イルカはオレンジっぽいチェックのシャツの中に白いTシャツを着ていた。胸の筋肉の流れがシャツの生地越しにうっすらと分かる。白いシャツの胸元が眩しいような気がした。
髪はいつもより低い位置で括っている。珍しいですね、と言うとイルカは笑った。
「劇場の中であれだと後ろの人が画面見づらいらしいんですよ」
今日の俺は映画館仕様です。と言ってまた笑う。頑丈そうな白い歯が口元に覗く。
その歯で噛んでほしい。色んなところを。
カカシは相変わらずの首元から顔半分を覆う黒いシャツに、支給品であるカーキ色のジャケットを着てきた。肩口に木の葉のマークのはいった、ベストと同様、木の葉の中忍以上なら誰でも持っているものだ。これに派手な刺繍を入れた物が、スーベニアジャケットと称して大門近くの土産物屋でよく売られている。カカシのは正規品なのでいたって地味な物だが、カラフルな部隊章や階級章などがいくつか胸に縫いつけられている。久しぶりにタンスの奥から引っ張り出した。支給された頃はごついジャケットに着られているようだったのが、いつのまにか様になるようになっていたのは驚きだ。
男の服は胸で着ろ、というのがカカシの師匠のさらに師匠のお言葉だ。
胸板が厚くないと、格好つけても様にならないという事らしい。
カカシはまたイルカの白いTシャツの胸を見た。まだ新しい真っ白なシャツがイルカの鎖骨や胸筋に沿って微かにたわんで影を作ったり、盛り上がって白く映えたり。魅惑のラインだ。手で触って確かめてみたい。
男の胸元を見てそわそわする日が来るとは思わなかった。
エロスの不思議だ。

まだ前の回の映画が終わっていないのに劇場のロビーには列が出来ていた。
人々の間に挟まれて二人並んで劇場の扉が開くのを待った。
「座って観られますかねえ?」
「これくらいなら大丈夫でしょ。同時上映は『復讐の爪痕・巨大アリクイの恐怖』かあ。どっから見つけてくるんだろねえ、こういうキワモノ…」
カカシは壁に貼られたポスターのリアルなアリクイの絵を眺めて感心した。
「あ、ポップコーン!俺、買ってきます!飲み物も!」
ひょいと伸び上がって列の向こうの売店を見てイルカが言い出した。
「巨大アリクイがばきばき人食ってるの観ながらポップコーン食べるんですか?」
「気分ですよ。映画館ではポップコーンとコーラ。ね?」
ニカッと笑ってイルカは列を離れて売店へ向かった。一番大きなバケツみたいなポップコーンを買っている。
いつもの動きやすい支給服じゃなくて、ぴったりしたGパンを穿いているから、なんか、もう、その後ろ姿だけで……女に感じるのとはまた違った色気だ。カカシはエロスの不思議を噛みしめた。
劇場の扉からエンドテーマ音楽が流れ出して、見終わった観客達がぞろぞろと出てきた。みんな別世界から帰ってきたみたいにぼんやりした顔つきをしている。
カカシは席を取るために先に場内に入った。席を探して人々が右往左往する中で素早く通路の左側の座席を陣取り、隣の席にジャケットを脱いで置いた。中央よりは少し前寄りだが、まあ、いいだろう。
イルカがポップコーンと紙コップを二つ、器用に手挟んで運んできた。カカシがジャケットをどけるとその席に腰を下ろした。紙コップを一つ渡された。中の氷がしゃりしゃりと音を立てる。プラスチックの蓋に差されたストローを吸い上げると甘い炭酸の味がした。
ごそごそと座り心地の良い位置を探して背もたれに凭れる。古びた映画館のシートはただでさえ硬いのに、連日満員のせいかクッションが人の尻の形に窪んでいた。
隣に座ったイルカがカカシの頭を見上げているのに気がついた。
ああ、邪魔かもねえ。この突っ立った髪は。
気になるらしい。
でも猫背だから大丈夫。
どうせ映画が佳境に入る頃には尻がずって座高は低くなってる。
場内アナウンスが流れて、灯りが落とされる。
ざわついていた観客達が、しん、と静かになる。
隣に座った互いの横顔を意識しながら二人も口を噤んでスクリーンを見上げた。

アリクイは恐かった。
カカシは知らなかったのだが、アリクイは二本の後ろ足で立つのだ。外敵が現れるとすっくと立ち上がり、威嚇するように両前足を広げて、フッ、フッ、と左右に身を揺らす。隙だらけのようで隙がない。しかも四つ足で歩いている時は頭も尻尾も細長くて、どっちが頭なのか分からない長い体にふさふさと毛の生えた、弓形のモップのような姿なのだ。それが立ち上がるとヒトデのように妙に体が広がって怖い。
そしてアリクイはばきばきとは人を食わなかった。細長い口から鞭のように撓る長い舌を出して、粘度のある唾液で獲物を巻き取り、絡めて口に吸い込むのだ。カメラは正面からこちらへ伸びてくる滑った舌を撮す。それが異様に怖かった。
あらすじは幼い頃、人間に酷い目に遭わされた仔アリクイが、森の奥でシロアリを食いまくって巨大になって人間の村落を襲うというパニック物だった。前半はとにかくアリクイの怖さでぐいぐい引き込まれたが、後半で謎の格闘家と巨大アリクイの一騎打ちになったあたりで訳が分からなくなった。
隣を伺うと、存外イルカは真剣な面持ちで画面を見ていた。
手とか握りたいなー、と思ったが、この映画の空気がそれを許さない。メインの映画が始まるまで我慢しようか。あっちはロマンスの要素も入っているようだし、ムードの盛り上がった所で---と考えたが、アリクイと格闘家に友情が芽生えそうになっているのを観ているうちにどうでもよくなってきた。
ま、いっか。
カカシはイルカの膝の上、ポップコーンのバケツを持っている手に自分の手を重ねた。スクリーンの中では格闘家の回し蹴りがアリクイの脇腹にクリーンヒットしたしたところだった。
イルカは、はっとした顔でカカシを振り返り、どうぞ、という感じでポップコーンを差し出してきた。
いや、違うんだけど…
カカシはおとなしくバケツに手を突っ込んでポップコーンを掴み取るとむしゃむしゃ食べた。イルカも思い出したように、ポップコーンを摘んで口に入れた。
映画が終わり、エンドロールが流れる。十五分間の休憩時間にはいった。
「よく分からない映画でしたね」
カカシはシートの上で伸びをして言った。イルカが「ははっ」と笑った。
それから笑みを口元にのせたままカカシへ視線を流した。
「今日は手甲してないんですよね」
と言った。
「直接、触ったからちょっとびっくりしました」
カカシは暫し、固まった。イルカはよくこういうどうということない科白でカカシを固まらせる。
「まあ、今日は非番ですし、」
カカシは肘掛けの上で手をひらりと返した。
「そうですね」
だから、なんでそんなことで嬉しそうな顔をするんですか。
カカシがじっとイルカの顔を覗き込んでいると、イルカは少しだけ眉を曇らせた。
「さっきのアリクイ、可哀想でしたね」
と、言った。
ああ、なんか結局、謎の格闘家に倒されていたよな。
「やっぱり、子供の頃に受けた心の傷は大きいんですよね」
イルカ先生は顔を俯けて真面目な口調で言った。カカシはイルカの手を取って、手の中でぽんぽんと弾ませた。そんな事を考えながら観ていたのか。
「でも死闘の果てにアリクイと格闘家は心を通わせることが出来たんですよ」
考えてみればこの里でこの手の映画を上映出来るようになったというのがすごいことなのかもしれない。巨大な獣に襲われるといえば、すぐにこの里の人々は九尾の事件を思い出す。大蛇丸の襲撃の記憶もまだ新しいが、娯楽作としてこういう映画を楽しめるようになったというのは、それだけ人々の心に余裕が出てきたということなのだろう。そしてスクリーンの中で怪物が英雄に倒されるのを観て人々は安心する。
そんな中でイルカはスクリーンの怪物の中に自分の元教え子達の幼い顔を重ね合わせて胸を痛めていたのだろうか。
でもナルトはあんな風に不気味に両手を広げて左右に揺れたりしませんよ。
もう一人の方はどうなったのか、まるで分かりはしないが。
水っぽくなったコーラを飲み、ぼんやりしているうちに周囲の人々は入れ替わり、開演のブザーが鳴った。場内が暗くなり、メインの映画が始まった。
二本目の映画はまともだった。
仇討ち話に男装したヒロインと、彼女が女だとは知らずにいる青年剣士のもどかしいラブストーリーが絡められていて、けれんみたっぷりのなかなか面白い映画だった。
ずっと手を繋いだままで観た。肘掛けの上でカカシがイルカの手を自分の掌に載せてやんわりと握っていただけだったけれど。一見、美少年のヒロインと剣士とのラブシーンなど倒錯的な画面になるたび、イルカの手がたじろぐのが分かったが、カカシは手を離さなかった。イルカは振り解こうとはしなかった。
そのうちイルカは映画に没頭しだして、カカシの方へは意識を向けなくなった。クライマックスでヒロインの着物が破けると、おお!と身を乗り出していた。劇場中の男達の反応がそんな感じだった。
確かに美乳だった。

 

 四時間ぶっ通しで硬い座席に座り続けたため、さすがに尻が痛い。
二人も、他の観客同様、別世界からの帰還者よろしくふらついて劇場を出た。ぞろぞろ流れる人の流れの中で、映画の世界に同調した子供達が俳優達の真似をして丸めたパンフレットで剣術ごっこをしている。ほら、あぶないわよ、と母親に窘められながら幼い兄弟は追いかけ合ってロビーへ走り出してゆく。イルカが微笑ましそうに眺めている。
一時の回から見始めて、今は五時だ。明るい昼日中だった町が、劇場を出ると薄暗く暮れ始めていた。
これから飯食って、軽く飲んで、で、うまくどっかにしけ込みたい。と、カカシは考えている。
好きだと伝えた。
キスもした。
ま、勝手に頂いたようなものだけど。
おつき合いを前向きに考えて下さいとお願いして、考えますとイルカは答えた。
水曜の午後はわりと暇です、という言葉を貰って、以来、カカシは水曜日の男を続けてきた。
自分も水曜日はなるべく空けるようにして、時間を合わせて会える時間を作った。イルカも協力的だった。今日だって、こうしてデートしている。
そろそろ次の段階に進みたい。
イルカのテリトリーにもっと踏み込みたい。互いの間の空間を殺して、もっと近づきたい。もう、そうしてもいい頃じゃないか。
水曜日は平日で、次の日はお互いに仕事があるが、今日は週末だ。一晩中、一緒に過ごせる。
とりあえず、飯だ。
がっつりとご飯系かな。それから飲み。

丼ものの店で夕飯を食べて、繁華街の外れにある丸いビルの中にあるバーへ来た。最近出来た話題のスポットだ。火の国の都で商いを学んできた酒屋の息子が開いた店だという。
床に白いタイルを敷き詰め、白い漆喰の壁を青い照明が照らし出す。天井の高い吹き抜けのフロアには適当な間隔で様々なデザインの椅子やソファ、テーブルが配置されている。店の奥には玉突き台やスマートボールの台が並ぶ。洒落ているが気取りすぎてもいない。バーカウンターの中には各国から取り寄せた様々な酒の瓶が並び、品揃えもなかなかのものだ。軽食もつまめる。難点を挙げれば、話題の店だけに知り合いに会う確率が高い。田舎だから娯楽施設が乏しいのだ。
バーカウンターの前に立って店内を見渡すと、受付や待機室で見かける顔がちらほらあった。皆、寛いだ格好で楽しげに飲んでいる。
メニューを眺めながらイルカが珍しいカクテルの名前を読み上げてゆく。カカシも一緒に一枚のメニューを覗き込んだ。息づかいを近く感じる。腰に手を回したいのをぐっと堪えた。
「へー、チャパラなんてカクテルがあるんですねえ。カカシ先生、これにしたらいいですよ」
イルカが一つのカクテルの名を指差して言った。
「勝手に決めないで下さいよ。俺、甘いの苦手なのに」
「じゃあ、俺が飲もうかな」
「え、じゃあ、俺も飲みます」
「なんですか、それ?」
こちらを向いたイルカに、カカシはにこりと笑いかけた。
一緒に(イ)チャパラ。願を掛けて飲もう。
カウンターでグラスを受け取ってフロアのテーブルに移動した。一人掛けのふかふかのソファに腰を下ろす。映画館の椅子と比べれば、天国の雲のような座り心地だ。
チャパラはテキーラベースのオレンジジュースみたいなカクテルだった。甘い。
今日観た映画の話をした。
「ユマってこれがデビュー作なんですよね。すごいですね。素人なのにあんなアクションできるんだから」
イルカが主演女優を褒める。。
「そうですねえ。美乳だったし」
「はあ」
「イルカ先生、すっごい真剣に観てましたよね」
「いや、あれは…」
観るでしょう、とイルカが真顔で言うのでカカシは笑った。
殺陣の場面の指導は火の国の有名な剣術師範がやったらしいとか、そういえば時々、受付にスタントマン募集の依頼が来るんですよねえ、とかそんな話をした。
お互い一緒にエロい映画観てもいいと思うくらいには近しい位置にいるのが嬉しい。カカシはずっと友人の少ない人生で、そんな相手はあまり存在しなかった。よく「一人の時は何をしているの?」と訊かれる。単独行動が多くて、何をしているのか分からない、謎の生態だと思われているらしい。実は木の葉の中枢が開発した移植用素体で、任務以外の時は生理食塩水に浸かっているんだ、などというまことしやかな噂が流れた事もあった。だからこんなに髪も肌も白いのだと。
笑ってしまう。
カカシは一人の時は大概、修行するかゴロゴロしてイチャパラを読んでいる。一人で飯を食って、一人で寝る。それだけだ。
ジュースみたいなカクテルはすぐになくなったので、かわりのジントニックを注文してそれを飲みながら、更に映画の話をした。アリクイが本当に怖かったと言ったら、イルカに意外そうな顔をされた。現実にもっと怖いものをたくさん相手にしているくせに、と言う。
「それとこれとは違うんですよ」
「そういうもんなんですか?」
話しながら、カカシはイルカの手を見ていた。映画の間中、自分の手の中にあった日に焼けた節高いイルカの手。ずっと手を握ったまま映画を観るなんて、普通はしない。友人としては逸脱した行為だ。許してくれたのは脈有りって事だよなあ。
カカシはイルカの指先に触れてみた。
丸みを帯びた指先と広い爪。
イルカは戸惑ったようにカカシの顔を真っ黒な目で見つめていた。
考えているのが分かる。
今のまま、少し接触の多い友人くらいのままでもいい。これ以上、近づいてのっぴきならない状況に陥るよりは、現状を維持していた方がいいのじゃないか。そう思うんだろう。情熱のままで突っ走るには年を取りすぎたし、同性同士でつき合うのはメリットよりリスクが大きい。
カカシだって、敢えてこのバランスを崩すのを厭わしく思う気持ちがないではない。今までも何度かそういう雰囲気になった事はあった。にもかかわらず見逃してきたのは、イルカの迷いのせいだけでなく、カカシ自身にも変化していく関係を悼む気持ちがあったからだ。失った友人とするはずだった事をイルカとしたいと思っている部分もある。
でももっとしっかりと触れ合いたいんだ。通過儀礼のように体の熱を分け合う事で抱きしめても当然の立場になりたい。
カカシはイルカの指を三本まとめてぎゅっと握った。
けたたましい破壊音と怒声が店の奥から響き渡ったのはその時だった。
「おまえらこいつに酒なんか飲ましてどうする気だったんだ!」
聞き覚えのある声にさっとイルカが立ち上がった。
続いてグラスの砕ける音や怒鳴り合う声が響いてきた。
「こらぁ! おまえ達何をやっている!!」
完全に教師モードに切り替わったイルカが、腹に響く大音声を挙げて駆けていった。
イルカの怒鳴り声に驚いて逃げ出そうとする男子達の襟首を引っ掴んでは投げ、引っ掴んでは投げ………あーあ。

イルカは元生徒達を正座させて説教を始めた。その後ろ姿を眺めながらカカシはジントニックを舐めた。やっぱりイルカのGパンの尻はいいと不埒な事を考えながら。
その場にいたのは若い中忍連中と、今年中忍に昇進した山中いの、日向ヒナタ、犬塚キバ、油女シノだった。イルカの受け持ちだった連中だ。サクラが面子にいない事にカカシはすぐに気がついた。最近、サクラは孤立しているように見える。だが、そうなっている事に彼女自身はあまり気がついていないようだ。大きな目標を掲げて偉大な師匠の元で研鑽に励んでいる。はっきり言って、そんな些事は今の彼女にとってはどうでもいいのだろう。サスケさえ取り戻せればすべてが上手くいくと信じている。
今はそういう時期なのだろう。一心不乱に自分を磨くのは、ま、悪い事じゃない。
山中いのあたりは気を揉んでいるようだが、心配したって仕方がない。なるようにしかならない。
カカシ自身はもう、そういう青臭い事はやめてしまっていて、今はそこで仁王立ちになって子供達を見下ろして説教を垂れている人をどうやって口説こうかとしか頭にない。
大人になると馬鹿になるって本当なんだな、と思う。
「グループ交際も結構だが十代は鼠の国にでも行きなさい!」
イルカが彼らに言った。まったくその通りだ。ちょろちょろしてイルカの気を散らさないで欲しい。イルカの中の優先順位は未だに、1幼い生徒、2年嵩の生徒、3卒業した生徒、なのだ。子供達を前にすれば、イルカの中でのカカシは3の卒業した生徒の付随物に毛が生えたくらいのものだ。
「グループ交際じゃなくて合コンだよ」
年若い中忍の一人が口を尖らせる。
「子供のくせに生意気言うんじゃない!」
イルカは憤慨している。気持ちは分かる。いい年した俺達がやっとここへ漕ぎ着けたのに、とカカシも思わぬでもない。
「先生はなんでこの店に来たんですかー?デート?彼女放っておいていいのー?」
だが女の子の一人がなかなか良い事を言った。
「先生は知り合いと飲みに来ただけだ。先生は成人してるからな」
イルカは腕を組んで、ふん、と鼻息荒く言った。ふんぞり返ってみせる様が可愛い。が、ちょっと引っ掛かった。
「知り合い?」
カカシは椅子の背に腕を預け、語尾を上げて尋ねてみた。
全員の目がこちらに向いた。
イルカは狼狽えて
「あ、あー、と、友達?」
と言い直した。
「友達、ねえ」
まあ、いいけど。カカシは眉尻を下げて笑った。

 

若い中忍達を解散させ、いの、シノ、キバ、ヒナタを引き連れてぞろぞろと店を出た。カカシは子供達の相手はイルカに任せて後ろをついていった。
夜の町を、子供達とぶらぶら歩く。
さっきからやたらといのがイルカに懐いている。手を繋いだり、腕を絡ませたり。
カカシはいのの青いミニドレスからすらりと伸びた細い足を眺めながら感心する。子供だ子供だと思っていたが、この娘はなかなか自分の使い方を心得ている。自分に似合う色、デザインの服を着こなして、甘える相手もちゃんと選んでいる。聡い娘だ。
サクラはそういう所が少し鈍い。自分の内と外の線引きが曖昧なのだ。
ヒナタは内閉的だが、それが一貫しているから敵は作りにくい。
七班に配属されて、一番貧乏籤を引いたのはサクラだろうなとカカシは思う。まあ、持ち前の根性と記憶力の良さ、そしてその鈍さで綱手に弟子入りするという暴挙に出たわけだから、差し引きは合っているのかもしれない。
そんな事を考えてぼさっと歩いていたら、いのが
「先生、一楽に連れて行ってよー」
と甘ったれた声でイルカに強請りはじめた。キバも同調して「ラーメン、ラーメン」と連呼する。
やばい。
ぴん、とカカシは耳を尖らせた。
イルカは一応、渋い顔を作って「うーん」なんて唸っているが、もう絶対に、卒業生達と一緒に一楽でラーメン、という構図に心動かされているのが分かった。イルカはラーメンと生徒というタッグにはメロメロなのだ。
「だってイルカ先生に叱られた後は一楽のラーメンって決まってるんだもーん」
子供達の方もそんなのは分かっていて、更に押してくる。
カカシは、そうはさせるか、とずっと触りたくてたまらなかったイルカの腰に腕を回して引き寄せた。ひょい、といのの腕からイルカを取り上げる。
「今日はだーめ」
有無を言わせぬ調子で言いはなった。
いのは、ぽかんとイルカの肩に顎を載せたカカシの顔を見上げていた。
イルカの体の厚みと温度を腕の中に閉じこめて、カカシは目を細めた。
先ほどいのに「私服が微妙にダサい」と言われてイルカはショックを受けたようだった。Tシャツの裾をしっかりGパンの中に入れてたりするのがダメなんだろう。だが、小娘には分かるまい。このぴったりとした脇腹からウェストにかけてのラインがいいのだ。更にGパンの中の腰と太股。撫で回したくなるじゃないか。
カカシは後ろからイルカの耳に口を付けて囁いた。
「俺、酔ってしまったようなので家まで送ってもらえますか?」
イルカは慌てた様子で
「え、そうなんですか!? カカシ先生全然顔に出ないから分からなかったですよ」
と、あたふたとカカシの背中に腕を回して体を支えようとした。
子供達は呆気にとられたようにカカシとイルカを見上げていた。
カカシは殊更に悪辣に笑ってみせた。
「君達、気をつけなさいね。大人になったら色んな危険があるんだよ。うっかり狼さんにお持ち帰りとかされないようにね」
しっかりと釘を刺す。大人には大人の時間があるんだよ。邪魔しないでね、と暗に言い聞かせた。
子供達は黙ったままこくこく頷いた。
「そうだぞ、世の中にはタチの悪い人間だって多いんだぞ」
とイルカが言う。この無邪気な人をどうやって食べてやろうか。
「そういうわけだから、ラーメンは今度な。おまえ達気をつけて帰れよ」
ここは俺が抑えるから、おまえ達は先に行け。そんな事を言われたみたいに心配げな子供達を残して、イルカはよたよたとカカシを背に負って歩き出した。
後ろから犬塚キバが「上忍、こっっぅええええ!!」と吠えている声が聞こえた。

「カカシ先生、大丈夫ですか?」
イルカが訊く。
この人ってホントに素直だよねえ。
思いながらカカシはイルカの脇腹の筋肉を摘んでみた。
「わ!擽らないでくださいよ!」
イルカが身を捩った。カカシは喉の奥で笑った。
「少し休んでいきたいです」
「気分悪いんですか?」
揺すってしまった事を悪いと思ったのか、イルカはカカシをしっかりと支え直すときょろきょろと周囲を見回した。どこか座れる場所を探しているのだろう。
「そうじゃないでしょ…」
「え?」
カカシはイルカの腰を掴んで歩き始めた。夜の飲屋街のネオンを外れて、小さな二坪ほどの飲み屋がぎちぎちに軒を並べている通りを過ぎると、静かな界隈に出た。
黒い土壁の向こうに木戸があり、「美須々」と小さな看板が出ている。流石にイルカもそこがなんだかすぐに理解した。所謂、逆さクラゲ、連れ込み宿だ。
「ちょっと…」
「休んで行きましょう」
イルカが身を捩ってカカシから身を離した。その腕を取って、強引にカカシは木戸へ向かった。
「騙したんですね!」
イルカは必死の形相で抗ってくる。
こんな事で血相を変えて。
「騙してないですよ。さっきまでは本当に気分悪かったんですって」
カカシはのんびりした口調で言いながら、イルカを門の中に引き込もうとした。
連れ込みの前で揉めている男二人。滑稽だ。客観的にはそう思うが、主観としてはけっこう必死だ。
「じゃあ、もう治ったんでしょう!? 休んでいく必要なんてないじゃないですか!?」
「野暮だなあ、先生」
揶揄するような口調で宥めているが、カカシも内心には、先生、俺のモノになってよ、と縋るような気持ちがある。もう、いいじゃないですか。もう、俺達しかいないんだから。子供達はみんな、大人になってそれぞれの道を歩み出している。俺ももう、我慢するのはいやなんです。そんな気持ちがイルカの腕を握る力を強くする。
「いい加減、腹を括りなさいよ。子供じゃないんだから」
つい、諫めるような口調になった。イルカがむっと眉間に皺を寄せた。
「こ、子供ってどういう意味ですか!? そういう問題じゃないでしょう?」
「さんざ思わせぶりな事しといて、そんなつもりじゃなかったなんて通用しないですよ、大人の世界では」
俺の手、握ってたでしょ。子供達の誘いより、俺の事優先させてくれたでしょ。水曜日はいつも俺の事待っててくれるでしょ。
「でも…まだ…早いですよ…」
イルカが小さく呟いた。声に惑うような響きが加わった。
「イルカ先生、いつもそれじゃないですか。早い、早いって、じゃあ一体いつになったら早くなくなるんですか?」
「う…」
「どうせいつかするんなら、今でもいいわけでしょう?」
勢いに任せて身も蓋もない事を言った。畳み掛けられてイルカは返答に詰まって唇を噛むと、二、三度瞬きをした。黒い睫に縁取られた黒い目が濡れたように光る。小さく、小さく、イルカが言った。
「壊れてしまうかもしれないんですよ?」
カカシはふ、と息を吐いた。
「いつかはなんでも粉々です」
イルカの黒い目が見上げてくる。寄る辺ない子供のような顔をしている。でも、とカカシは続けた。
「でも諦めきれないからこうしてるんでしょう?粉々になっても残るものはあると思っています」
手に掴めたはずのものを何度もみすみす逃してきた。思い込みや執着する事を恐れて、ただ去ってゆくのを見送ってきた。
「ねえ、イルカ先生。俺はもう、あなただけでいいんだ」
しっかりとイルカの腕を掴んだままでカカシは言った。
「イルカ先生が今日、来たのは、女優の生乳が見たかったから?」
「…なに言って……」
「それとも俺と一緒にいたかったからですか?」
カカシの言葉にイルカは口を噤んで俯いた。伏せた目蓋が翳るのは奥二重のせいだ。薄青く透けるような翳り。好きだなあ、と思う。
俯いたままのイルカががしっとカカシの背中を掴んだ。
「入るの?」
思わず訊く。
「入りません」
イルカは連れ込みの木戸を睨みつけたまま言った。
「なんなんですか…! もう…もう……っ! やりたいだけの男みたいに…!」
イルカの言葉にカカシはつい、にやっとした。的を得ている。今のカカシはイルカとしたくてたまらないだけの男だ。
「こういうとこは嫌なんですよ。カカシさんの家に行きましょう」
カカシのジャケットを掴んでイルカはぷい、と歩き出した。
「え、でも、こういう所の方が色々揃ってるし…俺ん家、なんにもないですよ」
間抜けな声を上げたカカシをイルカがきっ、と睨みつけてくる。
「いや、ゴムくらいはありますけど…」
ジェルとかそういうものは買っていかないといけない。医療用の傷薬みたいなのは常備しているが、ああいうのは乾きが早い。それよりは油脂性の物の方がいいかもしれない。指先や足先を温めるために塗る軟膏が洗面所の棚にあったはずだ。
「馬油とかでもいいですかね?」
「ちょっと、あんた黙ってて下さい」
じろりと睨まれた。イルカの黒い目は値千金だ。

薬局には寄らずに、途中、三叉路の角の果物屋に寄った。
イルカが果物の棚を物色している横で、カカシは出てきた時の自分の家の様子を思い出していた。
「しまった…。シーツ、ざらざらじゃないか」
掃除もしてない。
家に着いてからの行動をシュミレートしていたら、イルカがグレープフルーツを五個も六個も抱えてきたので驚いた。
「そんなにどうするんですか?」
「食べるんですよ」
一個十両、安い!とイルカは事も無げに言った。
「寝不足と運動にはビタミンCです」
黄色い大玉の果実をいくつも抱えて真面目な顔で言うので、どこまで本気かとカカシは悩んだ。
夜道を手を繋いで帰った。
イルカの片手にはグレープフルーツの入った半透明のビニール袋がぶら下がっていた。明るい月を何個も詰め込んだようだった。
「俺のこと振らないでくださいね」
カカシは言った。
さもないと、この先、グレープフルーツを見るたびに泣きたくなってしまうよ。

イルカは立ち止まって、しっとりとしたキスをくれた。

 

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