#19 落日の缶チューハイ

あ。今日、俺、誕生日だった。
イルカがそう気がついたのは少しばかりの残業を終え、家に帰って夕飯を食べて風呂に入り、パジャマがわりのくたくたになったTシャツを着て畳の上に新聞を広げた時だった。
朝、出勤する時に新聞受けから引き抜いて台所の床に投げ出したままだった新聞を拾い上げ、片膝を抱えて床に座ると濡れた髪からぽたぽたと滴が紙面に落ちた。ところどころ濃い色になったくすんだざら紙の上で滲んだインクがイルカの生まれた日を示していた。
イルカは壁に掛かっている時計を見上げた。
十時を少し回ったところだった。
何かをするにはもう遅い。
誰にも何も言われなくて、イルカ自身も忘れていた。
周囲に自分からアピールして祝ってもらうなんていうのも、もうとっくの昔に卒業した。子供の頃はなんだか特別なもののように感じていたけれど、この歳になると誕生日もそうでない日も違いなんてない。
特別だと感じていたのは周囲がそう扱ってくれていたからだ。
今のイルカには祝ってくれる恋人もいないし、家族はとうの昔に失った。
去年はどうしていたんだっけ。
やっぱり仕事だの任務だのでそれどころではなかったんじゃなかったろうか。
そうだ。去年は三代目の執務室に呼びつけられて書類の整理をしていた。帰りにお供を申しつけられて一緒になんだか高そうな店で鰻の白焼きをご馳走になった。
ナルトが卒業したから肩の荷が下りただろうとか、そろそろいい相手はいないのかとか、そんな話をしたんだっけ。ふんわりとイルカの鼻孔に香ばしく焼けた鰻の匂いが蘇った。ごつごつした重たい湯飲みの中の、深い緑茶の色や肝吸いの中に浮いた三つ葉の芳香、そんなものがありありと思い出された。
そうか。あれは誕生日だったからか。
立てた膝に顎をのせてイルカはぼんやりと思い出した。
慣れない高級店の座敷で三代目と二人、向かい合ってお膳をつついた。里ではこの店の鰻が一番美味いんだと言っていた。三代目は美味い店をよく知っていた。イルカは時々、お供としてご相伴にあずかった。年を取ると食べること以外に道楽もなくなる。そう言って笑っていた。それから接待にはこの店、贈り物をする時にはあの店かあの店、それ以上の格式のところでないとだめだ。そんな知識をさりげなく与えてくれた。そういった事も知っておかなければ恥をかくぞ、と。大人になって肉親以外には訊けないような事は殆ど三代目から教わった。
三代目の皺々の顔を思い出す。両親を失ってからなにくれとなくイルカに目を掛けてくれた。他にもイルカのような子供はたくさんいたはずだが、おまえは特別扱いされていると人に言われたこともある。
自分を特別に扱ってくれた人。
今はもういない。
一人の部屋に時計の音が響いた。
これからはこうやって失っていくばかりなのだろうか。
漠然と感じた事にイルカの背筋は冷たくなった。
これから先はもう、自分はなくすばかりなのじゃないだろうか。
ナルトは今、里にいない。他の子供達もそれぞれイルカの手を離れていった。
サスケのことは----誰も口にしようとしない。
音忍の襲撃後の混乱でアカデミーや受付の職員達も随分顔ぶれが変わった。任務だと出て行ってそれきり帰らない者もいる。
両親を失って、イルカの世界は壊れた。
だが周囲には同じような傷を受けた友人達がおり、抱きしめてくれた里長がいた。
もう一度、イルカは世界を今度は自分の手で作っていくのだと思っていた。生きていれば得るものもあるはずだと信じてきた。
確かに友人はたくさん出来た。同じ小隊に配属された先輩や後輩達、職場での同僚、可愛い生徒達。愛情をかけてくれる相手に巡り会ったこともある。
けれど結局、独りになるだけじゃないのか。
誰もいない小さなアパートの一室で時計の音を聞いている。

サンダルを引っ掛けてイルカは外へ出た。
夜道をぺたぺたと足音も消さずに歩いていく。
春よりも夏に近づきつつある季節は夜風もさほど冷たくはない。昼間のうちに暖められた地面からじんわりと熱が放射されているのが靴底ごしに感じ取ることができる。
住宅街の狭い小路を抜けて角を曲がると商店街だ。ほとんどの店がシャッターを下ろしている中に、ぽつんと一軒だけ明かりの灯る店がある。
あの店だけは十一時まで開いている。夜遅くに帰ってくる者達が利用する小さなスーパーで食料から文具、衣料品まで、品揃えは少ないが幅広い商品を扱っている。イルカも仕事で遅くなった日など総菜や弁当をこの店でよく買って帰る。
イルカは店の戸をくぐると買い物籠を手に奥のアルコールの並んだケースに向かった。
祝杯をあげようと思ったのだ。
一人でも構わない。
折角、気がついた誕生日だ。自分くらい祝ってやろう。
このまま何もなく、ただ忘れ果てていくだけの日常よりも一人でも何かしたい。そうじゃないと何かがどんどんだめになっていくような気がした。
侘びしいのなら、きちんと侘びしいという気持ちを味わっておかないと、そう律儀に思う質なのだ。
棚に並んだ焼酎や洋酒の瓶を横目に通り過ぎ、ガラス張りの冷蔵ケースを覗き込む。明日も仕事があるから軽くリラックスできるようなアルコール飲料で十分だ。
パクッと呼吸するみたいな音をたててケースを開くと葡萄のデザインの描かれたロング缶を一本、籠に入れた。銀色の缶がきらきらしていて甘くてジュースみたいな口当たりの女の子が好きそうな缶チューハイだ。
つまみは、まあ、いいか。
夜中に食べると太るしな。
精算しようとレジに向かうと店の引き戸がからりと開いた。
人が入ってきたようだが気配はなく、ひんやりとした夜風だけが店に入ってきたようだ。ご同業らしい。里の中でもこんなにひっそりと気配を忍ばせているのは同業者でも珍しい。イルカは振り返るでもなく店の中へ入ってきた人間に視線を走らせた。店の入り口から真っ直ぐ入った弁当や総菜を並べた棚の前に立っている。
びっくりした。
くすんだ灰色の髪がまず目についた。夜の空と同じ紺色の忍服とカーキ色のベストはこの里のどこででも目にするものだが、ひょろりとした猫背の痩身に顔の殆どを隠す覆面と額宛は彼独特のものだ。
「カカシ先生!?」
カカシはきょとんと声を上げたイルカへ目を向けると、目の下に皺を作って目を細めた。少々くたびれた感じの微笑みだった。
すごく久しぶりに見たような気がする。
ナルトが自来也と修行の旅に出て、サクラも五代目の弟子になりカカシは上忍師の任を解かれた。それ以来、カカシの姿を受付所で目にすることはなくなっていた。上層部から回される重要任務で駆けずり回っているのだろう。今も任務帰りなのか忍服は薄汚れてゲートルやサンダルも泥にまみれている。近づくと珍しく、うっすらと汗のにおいがした。
「今から夕飯ですか?」
カカシの手元を見てイルカは尋ねた。
「あ、はい」
おかかのお握りを手に取ったままカカシは夢から覚めた人のような顔をしている。
「びっくりしました」
その表情のままカカシは言って、また目を細めた。イルカもつられて笑う。
「俺もびっくりしました」
イルカ先生は?と訊きながらカカシがイルカの手に持った籠へ目を向ける。
「晩酌ですか?」
「はは。祝杯をあげようかと」
「祝杯?」
なんの?と目で尋ねてくるカカシにイルカは鼻の頭を掻いた。
「今日、俺、誕生日だったんですよ」
カカシは片方だけ見えている青い目を見開いた。
やっぱり侘びしいことしてるかな。恥ずかしい。
「さっき気がついて、折角だから一杯飲もうかと思って---」
ははは、とイルカは誤魔化すように笑った。
「それは、おめでとうございます」
ぺこりとカカシが頭を下げた。
上忍に頭を下げられて慌てたのはイルカの方だった。相変わらず拘らない人だ。
何もお祝いになるようなものを持っていない、とカカシが困ったように言う。別に気を遣って頂かなくて結構ですよとイルカが言う。カカシが店内を見回したがこの店で買えるのはちょっとした菓子やつまみくらいだ。祝いの品といえるようなものは置いていない。じゃあ、軽く飲みにでもと誘いたいところだが、もう時間が時間だ。明日は仕事があるし、カカシの方も体調を整えておかねばならないから最近はアルコールを断っているそうだ。
それぞれレジで精算を済ませて、ではおやすみなさいと別れてしまえばなんにもない、ただ終わっていくだけの一日だ。
別にそんな一日はいつもの一日で、誕生日だからと何かが変わるわけでもない。
昨日や今日と同じ一日が明日も待っている。
二人で店を出た。
カカシは買った握り飯を入れた袋をぶら下げて、数歩先で立ち止まってイルカを待っている。
遅くに任務を終えて、帰りがけに買った握り飯を食べて風呂に入って布団に潜り込む、彼の方も今日の残りはそんなところだろう。
少し疲れた顔をしている。
もう少し一緒にいたいなと思った。でも迷惑かもしれない。
引き留めるための言葉を言い出しかねてカカシの顔を見つめた。別れがたい気持ちを抱いているのはイルカだけなんだろうか。イルカは手に持ったチューハイの缶を掲げて見せた。「これ、」と手振りに遅れてもたもたと言葉を紡ぐ。
「飲む間だけ、つき合ってください」
カカシは「はい」と答えて微笑んだ。

 

夜の商店街をぶらりと歩いて、道端の一段高くなったコンクリの上に並んで腰を下ろした。シャッターの下りた通りには他に人影もなく昼間の猥雑な空気を夜風が散らしている。
いい年をした男が二人して、家には帰りたくないけれど行くあても金もない子供のようなことをしている。十代の頃は酔いつぶれて路上で夜を明かしたこともあるが、さすがにこの歳になって教職に就いてからはそんなことはしたことがない。忍びでも教師はやはり聖職という意識があって里の中では体面の悪いことは出来ない。
一方、木の葉の上忍の中でも精鋭と謳われたカカシにも面子や体裁があるだろうに頓着した様子もなく買い物袋をガサガサいわせて握り飯を取り出すと覆面を引きおろし、さっそくぱくつきはじめる。腹が減っていたのだろうか。ずいぶんな早食いだ。
その様子を眺めながらイルカもチューハイのプルタブを開けた。プシッと炭酸の抜ける音がしてアルコール混じりの甘いにおいが香った。
カカシは案外、無造作に覆面をはずす。はずさなきゃ飯も食えないし、顔も洗えないだろう。それでも素顔を見たことがないという人間が多い。一番行動を共にした時間の長い子供達さえいまだにカカシの素顔を知らないらしい。自分の素顔にあんまり興味を持つからカカシが面白がってわざと見せないようにしているみたいだけれど。
それなのに自分の前では平気ではずすんだよなあ。
イルカははぱくぱくとお握りを片づけてゆくカカシを眺めた。
片目は額宛で覆ったままだけれど覆面をはずしたカカシはちょっと顔の整ったただの男にみえる。いつもは彼と周囲を隔てている壁、それは彼自身の警戒心なのかもしれない、そんなものが消えて彼の特異性が薄れるように感じるのだ。そんな姿を身近で晒してくれるのはやはり嬉しい。
イルカは冷たい缶の縁に口をつけた。炭酸の泡がしゅわしゅわいいながら口の中に流れ込んでくる。
チューハイを含んだ口元が自然に笑みの形になる。
ちらりと目を上げてそんなイルカをカカシが窺う。
「イルカ先生は、一人でもそうやってちゃんとしてるんですねえ」
カカシが感心した風で言う。いや、全然ちゃんとしてません、と自分の襟の伸びたよれたTシャツを見下ろしてイルカは思う。
「一人でも時間がなくてもそうやってちゃんとお祝いするんでしょ。そういうの、えらいですね」
「全然、えらくなんかないですよ。いい歳して独り身の男の誕生日なんて---」
思いがけない言葉にイルカは手を振って否定した。どちらかというと恥ずかしい事をしている自覚はあったから慌ててしまう。カカシは薄く笑みを浮かべたままでイルカを見つめている。
そんな包み込むような目で見つめられると尚々いたたまれない。
ほんと、この人変わってるよな。
己の恥ずかしさをカカシに転嫁してイルカは思った。
「今日イルカ先生に会えてよかったです」
思わずじっと見つめ返してしまったイルカに照れたのか、カカシは俯いて胡座をかいた膝に載せた握り飯に目を落とした。
「ちょっとめげそうになってました」
カカシの言葉に驚いてイルカは彼の伏せた顔を見た。
少し痩せたかもしれない。元々薄い目蓋が更に薄く、尖った顎のラインも更に鋭くなったかもしれない。
----部下から抜け忍を出したのだ。
今の火影自身が里を出てあちこちに借金を作っては逃げ回っていたような人だから表立っては何もないが一部でカカシに対する風当たりがきつくなっているという噂はイルカの耳にも入っていた。それと同時に今までは誰も口にしなかった過去の噂なども漏れ聞こえてくるようになった。一つミスをしただけでそれまで築き上げてきたすべてが帳消しになってしまう、今までは好意でとらえられてきたすべてが悪意を持って解釈される。そういう状況にカカシはある。
里の中が今、そういう空気なのだ。砂と音の襲撃直後は皆、一丸となってがむしゃらに復興のために働いた。三代目 を失った痛手は深く、里の象徴ともいえる巨大な障壁を崩されたことは物理的にも精神的にも里の内外の人々に衝撃を与えた。だが砂との同盟を早急に回復させた五代目の柔軟な姿勢は内外の情勢を安定させたし、通常通りの任務を受け続けることで木の葉は信用を落とすには至らなかった。新しい火影の下で外回りの者も内勤の者も関係なく任務にあたり、足りない戦力を補おうと激変した環境の中で任務にあたってきたおかげだ。
その疲れが出始めている。
それどころではないと外へと向けられていた視線が情勢が安定すると内側へ向けられるようになる。あの時の何が悪かったのか、誰が悪かったのか、そんなことを考え始める。失ったものを振り返るささくれだった気持ちのぶつけどころを探し始める。前線に立っているが故にカカシは矢面に立たされることが多い。
「カカシさん、」
どう声を掛けたものか躊躇ったイルカにカカシは首を傾けてふう、と溜息をついた。
「新技の開発が思うようにいかなくって」
俺、コピーは得意なんですけど自分で編み出すのって不得手なんですよね、とぼやくように言った。
「俺の先生はそういうの天才的だったから、ちょっとコンプレックスですよ」
え。写輪眼のカカシのコンプレックス?つか、千も技持っててまだ新技を開発するつもりなのか、この人!
「ガイには言わないでくださいね」
カカシが戯けたように言って目を細める。
「はー。カカシさんは頑張り屋さんなんですね」
しみじみと呟いてイルカはチューハイを啜った。サスケのことを気に病んで精神的にガタガタになっていたっておかしくはないのにこの上忍の腹の据わり具合ときたら。
「頑張り屋さん、って」
カカシがきょとんとした顔をイルカに向けた。
「俺にそんなこというのイルカ先生くらいですよ」
う、とイルカは言葉に詰まった。
「す、すみません」
よくアカデミーで放課後に一人、授業で出来なかった術を延々と自己練習しているような子供に「○○は頑張り屋だなあ」とか声を掛けるのだけれど、上忍が相手だから丁寧語にしてみた。んだが、上忍に向かって言う言葉ではなかったか。
「イルカ先生のそういうとこ好きだからいいです」
そんな科白を吐いてカカシは三つ目のお握りに齧りついた。イルカはなんだか据わりの悪い心持ちになったが黙って缶チューハイに口をつけた。
「俺は自分で自分を終わらせるようなことは絶対にしないんだ」
静かに自分に言い聞かせるようにカカシが呟いた声がイルカには聞こえた。なぜだかそれが胸に迫って、イルカは夜空に目を向けた。狭い土地にごちゃごちゃと建物のひしめく里の空は狭い。けれど周囲に大きな街もなく家々の灯の消えるこの時間は澄んだ空気がくっきりと星や月の光を地上へ落とし込む。井戸の底から空を見上げるように、高い建物の狭間の路地の底からきれいな夜空が見える。そういえばここのところ忙しくて空もまともに見ていなかった。アカデミーでの授業はまだ再開されていないから子供達と一緒に校庭で夕焼けを見たりもしない。三代目の葬儀の日に見上げた雨空が最後に見た空かもしれない。あの日からずっと目の前には壁ばかりが続いているような気がしていた。
「俺も今日、カカシさんに会えてよかったです」
目まぐるしい日々の中でどんどん飛び去るように周囲から知った顔が消え、知らない顔が増えていく。また一から知り合って、そしてまた失うのかと思うとたまらなくなった。
ふと立ち止まると、すべてが空しく感じた。
だけどそんなこと言っていられない。明日も仕事に行くのだ。笑って、まだよく知らない新しい火影の元で依頼を捌いて忍達を見送らなくてはならない。一杯飲んで、自分におめでとうと空元気でも声を掛けて眠るのだ。両親が死んだ時と同じだ。
そう自分に言い聞かせて夜道を歩いてきたら、この人がいた。
変わらない飄々とした様子で目を細めて笑ってくれたのだ。
「あなたの顔見たら、なんだかとても安心しました」
笑って言うとイルカは肩の力が抜けるまま後ろのシャッターに背をつけた。ぅわん、とトタン板が震える。体重を掛けると曲がってしまいそうで後ろ手に体を支えながら尻で後じさってそっと体を凭せ掛けた。
ナルトもいない。三代目にはもう二度と会えない。サスケはここを捨てていった。
この人もそんな里の中で生きている。
「カカシさんもたまには顔を見せてくださいよ」
イルカは首を傾げて隣に座っているカカシを見た。いつもよりくすんだ髪の色や埃と汗のにおいがやけに彼を間近い存在に思わせた。カカシもイルカの方へ顔を傾けた。握り飯はもうすべて腹に収めてしまったらしい。だのに覆面を引き上げもせずじっとイルカを見つめている。物言いたげに唇が薄く開かれたが言葉はなく、少しの躊躇いを見せてカカシはイルカへ顔を寄せてきた。
鼻先がぶつかりそうになって避けようとすると同じようにカカシも顔を傾ける。何度かそれを繰り返して、もう避けようがないほどイルカの眼前に白い頬が迫る。顔を見せろとは言ったがそこまで近くで見せなくてもいいだろう。イルカは後ろにしたシャッターに背をはりつけた。ちょっとこの距離は近すぎる。そう思っている隙に、ちゅっと唇に吸いつかれた。びくりと震えた拍子に後ろのシャッターがごわぁんと鳴った。夜の町に不似合いな大きな音が響いてイルカは慌てた。その音を押さえ込むようにカカシに肩を掴まれてシャッターに押しつけられた。
ちゅ、ちゅ、と何度も唇を吸われた。
なになになにしてるんですか!?俺は今日で二十ン歳になる中忍ですが男にキスされたのは初めてですよ!?
唖然としていると、イルカにのし掛かっていた男はゆっくりと身を起こした。
「海苔ついちゃった」
呑気にそんなことを言って、カカシはイルカの唇をぐいと親指で拭った。
「俺、今でもあなたのこと好きなんですよ」
イルカの顔を覗き込んだままカカシは言った。
「そ、それは初耳です」
シャッターに背をはりつけたままのイルカに、ああ、そういえば言ったことなかったですねえ、とカカシは笑った。
「あんまり長いこと好きだったから、とっくに伝わっているような気になってました」
そんな馬鹿な。
「そんな馬鹿な」
考えたことがそのまま口をついて出た。
「すみません」
カカシが目を伏せた。そうすると切れの長い目が強調されてやけにきれいな顔立ちに見える。
「俺もまだ色んな事諦めたくないなあと思って。あいつらも今、頑張ってるでしょ」
小さかった子供達は今は自分達の手を離れて伝説の三忍と呼ばれた忍達の下で修行に励んでいるはずだ。
「イルカ先生、好きです。俺とのこと前向きに考えてくれませんか?」
諦めたくないと口にしながら一度は諦めたことのように、まるでだめ元とでも思っているような口調でカカシが言う。そんな風に言われたら無碍にはできない質だ。なんと答えたらいいものかと混乱する頭で必死に考えていると、また唇に吸いつかれた。
「ん…ん…、ふ……」
きつく噛みしめた唇を、中に入れて欲しいとカカシの舌がなぞってゆく。なんだか悩ましい息が漏れて焦ってイルカはカカシの胸を力一杯押しやった。
早食いは飯だけにしてくれ。
この機会を逃したら二度と触れることは出来ないとでも思っているのかカカシはなかなか離れようとしない。
「考えます。考えときますから…!」
イルカは真っ赤になって悲鳴のように叫んだ。
「ありがとう」
行動とは裏腹に誠実な響きの声でカカシは笑った。
強引なくせに儚げな笑顔にイルカは文句も言えなくなる。そういうのってなんだか狡いなあ。
恨みがましく睨みつけていると名残惜しげにカカシの白い指がイルカの頬をなぞった。
その仕草にそろそろ別れる時間が近づいてきているのをイルカも感じた。もう日付が変わろうとしている。
じゃあ、ね。またね。そう言ってカカシは立ち上がった。
自分の周りを適当に後始末するとゴミを詰めた袋をぶら下げてふらりと歩き出す。
ちょっと、待て。
その後ろ姿をぽかんと見送りかけてイルカは我に返った。
人を道端の下ろされたシャッターに張り付かせたままこんな夜の中置き去りにする気か。
イルカは飲みかけの缶チューハイを手に立ち上がるとカカシの後を追った。
「帰りますよ、俺も!」
隣に並んで怒ったような声で言うと、カカシは心配そうな顔でイルカを窺ってくる。どことなくアンバランスな人だなあと思った。前々からそんな印象はあったけれど。
「俺、水曜日は早上がりなんです。来月、砂隠れの視察団が来るらしいんでその準備もあって休日出勤とかも多いんですけど、水曜日の午後はわりと暇なんで」
早口でまくし立ててイルカはほんの少しだけ背の高いカカシの顔を見上げた。
「カカシさんも忙しい人だし、会おうと思ったらそのつもりで時間作らないとまた何ヶ月も会えないでしょう?」
それに釘を刺しておかないとこの人、新技が完成するまで会いに来ないような気がする。
「任務が入ることもあってシフトも変則的なんですけど、水曜日はなるべく空けておきますから」
だからちゃんと顔を見せて下さいね。そう言うと「はい」と答えてカカシは目を細めた。

もう自分の人生は打ち止めかなあ、などとすっかり斜陽な気持ちになっていたのが数時間前、そんな自分に降ってきた、今はまだ扱いの分からないこれは幸運なのか、不運なのか。
機嫌良さそうな顔を隠すように読み古した文庫を広げたカカシはちょっと可愛かった。
誕生日に貰ったものなんだから大事にしようとイルカは思った。

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