#20 オレンジフラワーウォーター

「合コンですか?」
本部棟の渡り廊下を歩いているところで声を掛けられた。声を掛けてきたのはさっきまで同じ研修授業を受けていたくのいちの先輩だ。
「新しく中忍になった子の顔見せみたいなもんよ。同じ任務に就くこともあるだろうし歳の近い者同士仲良くしとこうってこと」
「はあ。それで合コンなんですか?」
自分より二期上の先輩は、ふふ、と笑った。
「結構、男の子のグレード高いわよ」
先輩の華やいだ声は耳にくすぐったくて、私は少しどぎまぎした。
中忍に昇格するまでは同期の下忍くらいとしか連んでいなかったけれど、中忍試験に合格してからは研修や特別演習などで中忍の先輩達と行動を共にする機会も増えていた。中忍になると小隊の編成は変則的なものになる。基本は下忍時代のスリーマンセルだけれど、中忍のみのスリーマンセルや医療忍を加えたフォーマンセルを組むこともあるし、暗号解読などの特殊技能を持った特別上忍と組むこともある。自分と二、三歳しか違わないはずなのに中忍の先輩達はとても大人っぽい。
合コンなんてテレビのドラマの中でしか観たことがなかったけど興味はあったんだ。
「山中さんも知り合いの女の子に声掛けておいてくれない?」
「いいですよ。私の同期の子っていったら…」
自分の友人達を思い浮かべる。彼女達は合コンなんて誘われたことないだろう。
しょうがない。誘ってやるか。
一歩リードしたようで気分がいい。ひっひっひっと内心笑っていると、先輩が付け足した。
「あ、春野サクラは誘わないでね」
え、と先輩の顔を見上げると先輩はカールした睫をしばたたかせて声を潜めた。
「あの子、評判悪いから」

サクラが綱手様に弟子入りしたと聞いた時は本当に驚いた。
サスケ君があんな事になって、ナルトも大怪我をして入院して七班はどうなるのかとみんな心配していたけれど、まさかサクラが綱手様の弟子になるとは誰も思っていなかった。というか、誰も火影である綱手様が直弟子をとるなんて思っていなかった。
その話を聞いた時、真っ先に私はサクラに問い質した。
「あんた、それちゃんとカカシ先生に相談して決めたんでしょうね?!」
「え?」
サクラは目を丸くして私を見返した。
「あんたはまだカカシ先生の直属の部下なんだから、上官に相談もなしに勝手に他の人に師事していいわけないでしょ!」
私の言葉で初めてサクラは事態を飲み込んだらしい。
「あ…わたし…」
「子供じゃないんだから、そういう事はちゃんとしなさいよ!」
既に綱手様に直談判で弟子にして貰うことを取り付けてきたというサクラに私は頭を抱えた。上官が部下に戦力外通知を出すことはあってもその逆なんて、余程のことがないとあり得ない。そんな事になったら上官の経歴に傷がつくだろう。相手が火影である綱手様ならばカカシ先生は飲み込まざるを得ないだろうが良い気持ちはしないに決まっている。
ナルトは怪我が治ったら自来也様と修行の旅に出ることが決まっている。その辺は前の中忍試験中からの経緯があるらしくてカカシ先生も了承しているということだが、サクラの処遇はまだ決まっていない。サスケ君もナルトもいなくなれば実質、七班は存続しないということになるかもしれないけれど、それを決めるのは班長であるカカシ先生だ。
「あんたはどうしていつも思い込みだけで突っ走るのかしら…」
---相手の気持ちも考えずに。
私はひっそりと心の中で呟いた。
「私、カカシ先生と話してくる!」
サクラは慌てて本部棟の上忍待機所へ駆けていった。
順番が逆だっつーの。
夕方、山中花店の店先に現れたサクラはほっとした表情をしていた。
「カカシ先生は私の好きにしていいって」
綱手様の許でならいいくのいちになれるだろうって言ってくれたのよ、とサクラは泣きはらした目蓋を赤く染めて言った。
私は腕を組んで深々と溜息をついた。
「カカシ先生が物わかり良くて助かったわよね」
素直に良かったねとは言えなかった。サクラはうん、と頷いて微笑んだ。

 

「いのちゃん…」
緊張した面持ちで隣に座ったヒナタが身を寄せてくる。ふかふかのソファーの上に借りられてきた仔猫みたいに怯えた様子でちんまりと座っている。
結局、私はヒナタだけ誘った。合コンなんて…と渋るヒナタを「いつまでもそんな内気じゃナルトが帰ってきても大した進展はないわよ」と強引に誘った。ナルトの名前を出すとヒナタがやる気になることは周知の事実だったので連れてくることに成功した。
木の葉茶通りで集合して先輩に連れられて入ったお店は、それまで私達が入ったことのないようなところだった。居酒屋なんかはお父さんや奈良のおじさんに連れられて入ったことがあったけど、そういう感じでもなかった。雰囲気が全然違う。
木の葉の繁華街の外れにある六階建ての建物の螺旋階段をぐるぐる登ってドアを開けると青い光に照らされたフロアに出た。照度を押さえた間接照明が下から壁を水底のような色に染めている。白いタイル張りのフロアの片側にバーカウンターがあって、一人掛けや大人数で座れるばらばらのデザインの椅子やソファーが適当に配置されている。結構、広い。奥にはビリヤードやスマートボールの台があって賑わっている。
「ここって私達が来ちゃってもいいようなお店だったのかなあ」
こそこそと小声で言うヒナタに、大丈夫よ!と返しながら、実は私も少しびびっていた。
「飲み物なんにする?」
目の前にメニューが差し出されて、見上げると先輩にあたる中忍の男の子がにっこり笑っていた。合コンで集まったのは私とヒナタ以外は年上ばかりで、女の子が五人、男の子が五人だった。壁の凹んだ奥まった場所のテーブルにみんなで座った。私達以外は慣れた様子で次々飲み物を決めてしまう。
「えーと、」
慌ててもう一度メニューに目を落とした。
お酒ばかりかと思ったらコーヒーや紅茶もある。ホットドックとかパンケーキとかの軽食もあって完全な飲み屋というわけではないらしい。少し安心した。
「ここ、ノンアルコールでも面白い飲み物が揃ってるのよ」
テーブルの向こうから私を誘った先輩が手を伸ばしてきて、よく手入れされた綺麗な爪でメニューのソフトドリンクの欄を指した。
ダミー・デイジーとかプッシー・フットとか、耳慣れない飲み物の名前が並んでいた。リモーネっていうのはレモネードのことらしい。名前が違うだけでなんだか珍しいもののような気がしてしまう。
「わ、わたし、ティーソーダ」
いのちゃんはなんにする?とヒナタが訊いてくる。注文を訊いてくれてるのは男の先輩なのに、この子、さっきから私の方しか見ていない。ホントに内気なんだから。
私は顔を上げてヒナタの分も愛想良く言った。
「オレンジフラワーウォーター」
じゃあ、注文してくるからと言って男の先輩達が立ち上がってバーカウンターの方へ歩いていった。店員が注文を取りに来るわけではなくて、あそこで飲み物を頼んで受け取ったらお金を払う仕組みらしい。
お金、どうするのかな。今、渡した方がいいのかな。後で精算するのかな。ポーチからお財布を出そうかどうしようか迷っていると「奢りだから大丈夫だよ」と小さく女の先輩が笑った。一番年下の新入りだからなのかな。女の子だからなのかな。
飲み物を持って男の先輩達が戻ってきて、それぞれに飲み物を配った。「はい」とグラスを手渡されて「ありがとうございます」と言ったら、そのまま黒髪の先輩が私の隣に腰を下ろした。別に男の子と隣り合わせで座ったりなんかいつだってしているし人見知りもしない方だけど少しだけ緊張した。
乾杯、と言ってグラスを合わせてから自己紹介になった。
男の子達はみんな私達より二、三歳年上だった。隣に座った人は十七歳だそうだ。黒い髪でちょっとカッコイイ。先輩達は配属部署の話なんかして盛り上がっている。私とヒナタは中忍になって日が浅いからあまり話にはついていけなくて黙ってグラスを舐めていた。
先輩達の話を聞きながらぼんやり考えていると男の子の一人がスマートボールをやろうと言い出して、みんなグラスを持って立ち上がった。
若い忍が集まる店らしく、台にはチャクラ封じの札がベタベタ貼ってあった。台には初級者用、中級者用、上級者用で種類があった。私は木の葉温泉の遊技場でスマートボールはやったことがあったけれど、もっと仕掛けが多くて難しそうな台ばかりだ。
やってごらん、と言われて男の先輩がヒナタと私のために台にコインを入れてくれたけどすぐに玉がなくなってしまった。
「んもー!」
台のガラス面をべちんと平手で叩いたら笑われてしまった。それからしばらく他の先輩達が玉を打つのを眺めていた。暗黙の了解で男の子達はみんな上級者用しかやらないみたいだった。上級者用の台は更に色んな仕掛けがついていて忍といえどそうそう点数を稼げない仕組みになっているんだけど、みんな結構上手い。
「なんか欲しい景品ある?」
黒髪の男の子が急に訊いてきたのでびっくりした。さっき隣に座っていた時は全然私の方なんか見もしなかったのに。
「ぬいぐるみとか?」
景品の並んだ棚を指して言う。
こういうとこの景品のぬいぐるみって安っぽくてあんまり可愛くないのよね。でも動物の形をしているからなんだか可哀想で捨てられなくて部屋に溜まっていくんだ。女の子はぬいぐるみが好きだろうとか単純に思われても困る。
でもとってくれるというのを断るのもなんだし、なんかいいものないかなと景品を物色していたら、可愛いラベルの瓶が目に入った。目を凝らすと商品名が書いてある。
オレンジフラワーウォーター
「あれ!あれがいいです!」
私は小瓶を指差した。
さっき私が頼んだオレンジフラワーウォーターの原液だ。実を取るのとは別の特別に香りの良いオレンジの花から取った蒸留水を瓶詰めにしたもので、料理に入れたりコーヒーに入れたり、お風呂のお湯にだって入れられるのだ。高価な物ではないけれど輸入品でなかなか手に入らない。
「わかった」
黒髪の男の子はスマートボールの台にコインを入れて何度か玉を弾いて台の調子を確かめた後、ばんばん玉を打ち始めた。
うわ、すごい。
弾いた玉は台に打ち込まれたピンに弾かれて右に左に跳ね返って、移動するバーに打ち上げられて、目まぐるしくいくつもの玉が台の中を跳ね回った。開閉を繰り返すホールに玉が吸い込まれると上からザラザラと新しい玉が落ちてくる。それが打ち上げられた玉に当たってまたホールに吸い込まれる。
見ている内に台の盤面は玉で覆い隠されて何も見えなくなってしまった。黒髪の男の子は足下の箱に玉をあけると、また玉を打ち続けた。
あっという間に二箱分のガラス玉が溜まった。
「すごーい!」
ずっしりとガラス玉の詰まった箱に私は感激してしまった。それだけでなんだか財宝の山みたいに見える。
黒髪の男の子と一緒に景品交換所に行って、玉を交換して貰った。
「はい」
と、黒髪の男の子が水色のラベルにオレンジの花の描かれた小瓶を渡してくれた。キャップは黄色ですごく可愛い。中身がなくなったら部屋に飾っておこう。嬉しくて顔がにやけてしまう。

 

男の子が飲み物を買ってくれたので、一緒に壁際のスタンドに行ってスマートボールに興じている他の子達を眺めていた。
「髪、伸びたよね」
黒髪の男の子が言った。
「え?」
私は驚いて隣に立つ男の子を見上げた。わ、背高いんだ。座っている時はあんまり意識しなかったけど、大人といってもいいくらいの身長だ。同期の男の子達はまだ私と背丈は変わらないけど、二、三歳年上になるとこんなに大きいんだ。
「前の中忍試験の時にばっさり切っちゃっただろ」
えええ!?なんで知ってるの、そんなこと!?
「あの時、俺、試験場の警備で見てたんだよね」
ぎゃー!あれを見られてたのかーーー!!
サクラとガチンコ勝負した時だ。あの時のいのは本当に恐かったと後で色んな人に言われた。うーわー、恥ずかしー。
「試合のためとはいえ、随分思い切ったことする子だなあって思って。それからなんか気になってさ」
山中さんのこと見るようになっちゃったんだ、と照れくさそうに黒髪の男の子は言った。
「ああ、」
私は気の抜けた声を出してしまった。
あれにインパクトを受けたのか。でもあれは先にサクラが---。
さっきまではしゃいでいた気持ちが落ちていくのを感じた。
いつも思い切ったことをするのはサクラの方だ。
私は破天荒に見られがちだけど、案外普通のことしかしない。
髪を切ったのは作戦として計算尽くだったけど、そこまでしたのはサクラにどんな事でも負けたくないと思ったからだ。形振り構わず目標に向かっていくサクラに、自分だってそれくらいやれるんだって見せつけたかった。
「あの時、私と試合してた子はどう思いました?」
私の言葉に黒髪の男の子は、え、と困った顔をした。
「春野サクラかい?ああいうのはガツガツしすぎてて、俺はあんまり…火影が代わった途端、自分を売り込んだり、ちょっと、ね」
男の子は言葉を濁した。
サスケ君のことに触れるのを避けたんだろう。抜け忍という言葉はこんな場所で軽々しく口には出せるものじゃない。
あの一件の直後に綱手様の直弟子になったことで春野サクラの名前は有名になった。あまり良い意味ではなく。
サスケ君と一緒に里抜けをするつもりだったんじゃないのかとか、その疑いを追求されないために綱手様に取り入ったのだとか陰で言われている。実際、綱手様の傍にいるおかげでサクラは守られている。サクラにはそんな意識はなかっただろうけれど、自分から安全な場所に潜り込んだのは事実だ。カカシ先生を見限って。
私だったら、シカマルやチョウジが里を裏切るなんてあり得ないけど、同じ立場になってもアスマ先生を裏切るような真似は絶対しない。アスマ先生は面倒くさいばっかり言っていて適当だけれどもちゃんと私達を守ってくれている。だから私もアスマ先生が判断を下すまではアスマ先生の部下でいる。
そりゃあ、誰だって伝説の三忍の一人である綱手様に弟子入りできればと思うだろう。私だって思う。アスマ先生に不満があるわけじゃないけど、綱手様は生ける伝説と呼ばれる方だ。くのいちなら誰でも一度は指導を受けてみたいと夢見るような方だ。みんな少しでも強くなりたいと思ってる。サクラだけじゃない。でも、じゃあ、皆が皆、綱手様に弟子入りしたいと言い出したらどうなるだろう。指揮系統も育成システムもめちゃくちゃになる。だから下忍の担当上忍師は里が決定するんだ。そして里の決定には皆、従う。
でも、結局。
「結局、抜け駆けした奴が勝ちって事ですよねえ」
スタンドに凭れて私は吐き出した。
サクラは綱手様の許でどんどん腕を上げていくだろう。カカシ先生は黙って許した。
サスケ君は抜け忍扱いにはならず、三年後まで処置は保留という形で落ち着いた。カカシ先生が上層部に働きかけたんじゃないかと私は推測している。でなければカカシ先生は自らが追い忍としてサスケ君を殺しに行かなければならない立場になると思う。たとえ抜け忍でも弟子を手には掛けたくなかったんだろう。
サクラは、サスケ君は里を裏切ってなんかいない、必ず助け出すと言い張っている。
自分が守られていることも意識しないで呑気なことだと思う。
私はサスケ君のことが好きだったし、彼が里を裏切ったなんて信じたくないけれど、そのためにシカマルやチョウジが傷ついたことは許せないと思っている。
自分が傷ついたからといって他人を傷つける人間を私は許せない。
だからこんな事を言ってはいけない。
「昔っからちゃっかりしてたんですよね、あの子」
自分の口から嫌な言葉が飛び出すのを私は聞いた。
今まで一度もサクラの陰口なんて叩いたことはなかったのに。いつだって悪口は本人の前でしか言わないって豪語してたのに。
私、今すっごいイヤな子になってるんじゃない。でももう一人の自分が心の中で囁いた。
いいじゃない。どうせ相手は知らない人で、こんな知らない場所で、ちょっとくらい愚痴ったっていいじゃない。今までサクラにされてきた非道いことをここで吐き出したっていいじゃない。
「親切にしてやっても仇で返すっていうか、気に掛けてくれる相手の事なんて考えてないんです」
「ふうん、同期だったっけ?」
促すような相槌に私は頷いた。
「いつも自分が、自分が、自分が、ってそればっかり。でもそうやって自分から主張する子の方が評価されるんですよね」
やる気があるからサクラを弟子にしたと綱手様は言っているそうだ。
自分は頑張っています、努力していますと周囲に見えるように振る舞う人間だけがやる気があるわけじゃない。だけどそうしなきゃ誰も気づいてなんてくれない。
サクラは狡い。
分かっている。これは嫉妬だ。
サクラは努力している。がむしゃらに。だから手を貸す人がいる。
悔しかったら自分も同じくらい頑張ればいいのだ。
分かってるけど。
「サクラは---」
「それ以上は言わない方が良い」
後ろから聞き覚えのある声がして私の言葉を遮った。
振り返るとシノが立っていた。
「どうせ後で後悔するのだろう」
見知らぬ空間に見知った顔を見つけて私はびっくりして口を噤んだ。
「シノ!どうしたの?」
シノはいつもの顔を半分隠すジャケットではなくて、額宛もしていなかった。
「ヒナタを迎えに来た。いのも一緒に帰るかと思って探しに来た」
シノはつかつかと私達に近づいてくると、私の手元のグラスを手に取った。
「何を飲んだ?」
「オレンジジュース」
「嘘をつけ」
シノはグラスに顔を近づけてくん、と鼻を鳴らした。
「ほとんどジュースだよ」
私は言い訳するように言った。本当は少しだけアルコールが入ってる。さっき一緒にいる男の子に買って貰ったチャパラというカクテルだ。
シノは私の横にいる男の先輩へ顔を向けた。
「これくらい平気だよ。中忍になれば任務で酒くらい飲む」
先輩は肩を竦めて言った。シノは黙って首を横に振った。
「帰ろう」
一言言って歩き出す。
私は急に正気に返ったみたいになって、シノの背中を追いかけた。後で先輩に挨拶もしなかったと思い出したけどその時はそんなこと考えつかなかった。
シノにサクラの悪口を言っているところを聞かれた。同期の仲間に私が本当はイヤなことばっかり考えている子なんだと知られたことがショックで、言い訳したいけど何にも言えなくて私は泣きたくなった。
なんで、私ばっかり…。
「ヒナタはいいよね。大事にされてるし」
なんかやけくそになってシノの背中に言った。
「迎えに来るんだもんね。私んとこなんか、」
「自制心が弱まってるな」
シノは溜息をついて振り返った。
「シカマルもチョウジもおまえを大切にしている。そんなことは見ていれば分かる」
薄暗い青い光に包まれて周囲のざわめきが遠い中、シノの言葉が私の耳に届く。
「おまえがサクラを大切にしていることもだ」
見ていれば分かる、とシノは言った。
「でも私、本当にサクラが嫌いだって思う時があるんだよ」
私らしくない気弱な声が出て、ほんとに泣きそうになった。
「俺もキバやヒナタが本当に鬱陶しいと思う時があるな」
ポケットに手を突っ込んだままシノは何でもないことのように言った。
「そんなレベルじゃないんだよ!本当に絞め殺してやろうかってくらい憎くなる時があるんだよ!」
「俺もキバの口に赤丸の糞を詰め込んでやろうかと思う時がある」
表情も変えずさらりと言ったシノに私はぽかんと口を開けてしまった。
「なに!?あんた、その無表情の奥でそんなこと考えてるの!?」
うわ。こいつ、ほんとに食えないよ!ちょっと、奥さん聞きました!?
私の顔を見てシノはフッと笑った。

 

「サクラはさあ、」
店の入り口近くの壁際に並んで立って、私はシノに思いつくままぽつぽつ話した。
「サクラは自分は弱いから頑張らなくちゃいけないんだって、周囲のことなんかお構いなしに目標のためだけに突っ走っていく子なんだよね」
そのフォローを誰かがしていてくれるなんて考えもしない。他の人間が努力もしないで自分を保っているとでも思っているのだろうか。
ヒナタなんかは自分は弱いといつも落ち込んで、努力しても誰にも言わずにじっと一人で耐えている。自分の足下さえ覚束ないくせに、後から人が来るとすぐに道を譲ってしまう。見ているともどかしいくらいだ。要するに育ちの良いお嬢さんなんだろう。
そう言うと、シノは「確かにな」と笑った。
サクラは力をつけるために自分より強い人間に手を貸して貰って、その人と同じくらい強くなるとその相手を顧みもせずにもっと強い人の所へ行ってしまうのだ。そうやって着実にランクアップしていく。
そうやって取り残されたのが私だ。
私、カカシ先生に自分を重ねていたんだ。だからあんなに腹が立ったんだ。
シノに話しながらだんだん頭の中が整理されてくる。
「そうしてもいのは理解してくれると思っているんだろう」
「甘えてるよね、私に」
「そうだな」
でも放っておけないと思ってしまうのだ。やっぱりサクラは狡い。あんなに必死で頑張ってる子、助けたくなるに決まっている。
「シカマルはいつも先輩の中忍達におまえを紹介しろと言われて断るのに困っているぞ」
「え?」
急に話題を変えられて、何のことだと私はシノの横顔を見た。
「さっきの男もそうだが、これから先たくさんの男がおまえのことを好きになるだろう」
黒眼鏡の陰からシノが私に視線を流した。
「いのはサクラがどんなに自分に憧れているか、分かっていないだろう」
シノの言葉に私は胸を押さえた。サクラが私をどう思っているかなんて---
不意に店内にガシャンとガラスの砕ける音が響き渡って遠くで怒声が上がった。
「おまえらこいつに酒なんか飲ましてどうする気だったんだ!」
あの声は---
「キバだな」
ふう、と息を吐いてシノは店の奥へ歩いていった。私も慌てて後を追う。キバもシノと一緒にヒナタを迎えに来たのだが、赤丸を連れていたキバは店の入り口で動物は持ち込めないと揉めたから置いてきたとシノは言った。こいつら、ほんとに仲悪いのかも…と思ってしまった。私とシノが店の入り口に戻った時には赤丸が一匹で扉の外で座って待っていたから、キバは一人でヒナタを探しに行ったのだろうと二人と一匹で待っていたのだ。
店の奥では中忍の先輩にキバが掴みかかっていた。
その横のソファでヒナタがへにゃへにゃと笑っている。
あちゃー、目を離すんじゃなかったわ。
「キバ、場所を考えろ」
シノが止めに入ったけど、そんな冷静な態度で止められたら尚更ムカツキそう。思った通りキバはシノの腕を振り払って更に先輩達に向かっていく。先輩達の方も先輩だけあって、逆にキバの首許を締め上げる。女の先輩達が押しとどめようとするけれど興奮した男の子達は聞いちゃいない。
「ちょっと、ちょっと落ち着いてよ」
キバと先輩の一人が取っ組み合ったままテーブルの上を転がる。店中の視線がこちらに集まる。どうしよー、とパニックになりかかった時、またもや聞き覚えのある声が響いた。三度目のそれは懐かしい大音声だった。
「こらぁ!おまえ達何をやっている!!」
全員がぴたりと動きを止めた。
鼓膜を破らんばかりのその声の大きさよりも、アカデミーで叩き込まれた条件反射でみんな動くのをやめた。
「げ!イルカ先生!!」
男子の何人かは、これまた条件反射のように逃げ出そうとする。キバも先輩達もだ。その襟首をはっしと掴んでイルカ先生は壁際の大きなソファへぽんぽんと放り投げた。
「店や他のお客に迷惑だろう!静かにしなさい!!」
いや、先生の声が一番大きいです。

全員、店の隅のソファの上に正座させられた。
「グループ交際も結構だが十代は鼠の国にでも行きなさい!」
鼠の国というのは火の国の大きな遊園地だ。昔、家族で行ったことがある。
イルカ先生はいつもの忍服ではなくてチェックのシャツにジーパンだった。中に白いTシャツを着ている。いつも高い位置で括っている髪は低い位置で緩く結んでいるだけだ。プライベートでこの店に飲みに来ていたみたいだったけど顔つきはすっかり教師のものになっている。
店の客達は静かになった店内に安心した様子でもうこちらを見る人はいない。
「グループ交際じゃなくて合コンだよ」
先輩の一人が口を尖らせる。
「子供のくせに生意気言うんじゃない!」
「先生はなんでこの店に来たんですかー?デート?彼女放っておいていいのー?」
女の先輩の一人が混ぜっ返す。
「先生は知り合いと飲みに来ただけだ。先生は成人してるからな」
腕を組んで、ふん、と鼻息荒く言ったイルカ先生の後ろから
「知り合い?」
と、低い声が響いた。静かな口調なのにざわついた店内でもよく聞こえる独特の声調だ。
全員の目がイルカ先生の向こうのテーブルに向かう。
椅子の背もたれにだらりと片手を引っ掛けて大人の男の人が座っていた。青い照明の下でわさりと白っぽい色の髪が揺れる。顔の半分は黒い布に覆われている。
「あ、あー、と、友達?」
イルカ先生が後ろを振り返って言い直すと「友達、ねえ」と男の人は背もたれの上の腕に顎をのっけて眉を下げて笑った。
ひゃー、と女の先輩達が声を上げた。
なんだ、あのフェロモン全開男は、と思ったけどよく見たらカカシ先生だった。カカシ先生も私服だった。へー。この二人って仲良かったんだ。先生達の意外な交流関係を知ってしまった。
「待ってるから続けてください」
カカシ先生に言われてイルカ先生は思い直したようにくるっとこちらを振り向いてお説教を再開した。後ろから見られていてちょっとやりにくそうだけど。
「こういう店には成人の保護者が同伴でなければ未成年は出入り禁止だ。しかも酒まで飲んで!おまえ達飲酒年齢にも達していないだろう」
俺達、迎えに来ただけなのによー。なんで怒られないとなんないんだよ。キバがブツブツ言うのが聞こえる。その横で酔っぱらったヒナタが天使のように微笑んでいる。ごめんね、キバ。シノ。と私は心の中で手を合わせた。ここは大人しく叱られて早く解放してもらおう。と、思ったのに
「ビールなんか飲むな。ホッピーを飲みなさい!ホッピーを!」
イルカ先生の次の言葉に思わず吹き出してしまった。
「キャハハハハ!」
「い、いの!?」
みんなの目が私に集まる。私は我慢できずにソファーの上でお腹を抱えた。
「イ、イルカ先生、おっかしい!さっきから…」
鼠の国とかグループ交際とか。なんでホッピーに拘るの?ホッピーじゃなくてもいいじゃん!
「微妙に私服ダサいし!!」
キャハハハハ!と更に私は笑い転げた。
「ダサ…!?」
イルカ先生のショックを受けた顔が可笑しくてまた笑った。他の子達も、ぷっ、くくっ、と笑い始める。
「ダサ可愛いでしょ」
後ろで頬杖ついたカカシ先生がにっこり微笑んだ。

 

私の爆笑のせいでお説教は有耶無耶の内に終わった。店を出てぞろぞろ階段を降りながら、先輩達も私達もきゃあきゃあと騒がしく先生にじゃれついた。
「おまえ達な!」とイルカ先生はまだ言い足りなさそうだったけど、このまま放免してくれそうだ。
すごく大人っぽく見えた先輩達もイルカ先生と一緒だと私達と大して変わらなく見えた。数年前までは私達と同じようにアカデミーで先生の授業を受けてたんだ。イルカ先生の前でふてくされてる男の先輩達はちょっと可愛いなと思った。
店を出て先輩達と別れて、私とシノ、キバ、ヒナタはイルカ先生と並んで歩いた。後ろをカカシ先生がぶらぶらついてくる。
「中忍に昇格したからって年齢的に子供なことは変わらないんだからな。世の中には女の子を酔わせて怪しい場所に連れ込もうとする奴だっているんだから、女の子は特に気をつけないといけないんだぞ」
「はーい」
「分かってないだろ、おまえは」
はー、とイルカ先生は溜息をついた。
私はイルカ先生の手を取ってぶんぶん振りながら「分かってまーす」と声高く言った。
分かってるよ。もう子供じゃいられないんだよね。
「先生、一楽に連れて行ってよー」
私は殊更子供っぽく響くように言った。
「お、いいなー。それ」
キバがのってくる。ラーメン、ラーメンと合唱したら先生はうーん、と唸った。
「おまえ達、まだ俺にたかる気か…」
渋い顔をしているけどもう奢ってくれる気になっているのは分かったから、もう一押しと言ってみる。
「だってイルカ先生に叱られた後は一楽のラーメンって決まってるんだもーん」
イルカ先生大好き光線を出しながらだから逆らえまい。イルカ先生が子供に強請られたり甘えられたりするのに弱いの知ってるんだ。私ってそういうとこ計算高いんだよね。
勝ったも同然と思っていたら、白い手がイルカ先生の腰に回って私からイルカ先生を取り上げた。
後ろからきゅっとイルカ先生のウェストを抱きしめて、肩口に顎をのっけたカカシ先生と目が合った。
「今日はだーめ」
穏やかだけど有無を言わせぬ口調で言われて私は唖然としてしまった。
イルカ先生は背も高いし、骨太でがっしりしている方だと思う。カカシ先生は背は高いけど手足が細くてひょろひょろして見える。なのにカカシ先生の胸の中にイルカ先生がすっぽり入ってしまっているのを見てすごくびっくりしたのだ。大きな犬を可愛がるみたいにカカシ先生はイルカ先生の頬に自分のほっぺたをくっつけた。急に二人とも私の知らない人達になってしまったみたいだった。
カカシ先生はイルカ先生の耳元にキスするんじゃないかってくらい口を近づけて囁いた。
「俺、酔ってしまったようなので家まで送ってもらえますか?」
まったく素面の顔でそんな科白を吐くカカシ先生を私も、シノもキバもぽかんと見上げた。ヒナタだけが何も分かってない様子でにこにこしている。
「え、そうなんですか!?カカシ先生全然顔に出ないから分からなかったですよ」
いや、イルカ先生も分かってない。カカシ先生が私達を見下ろして弓形に目を細めた。なんか分からないけど、ヤバイ感じだだ漏れの笑みだった。
「君達、気をつけなさいね。大人になったら色んな危険があるんだよ。うっかり狼さんにお持ち帰りとかされないようにね」
私達は何も言えずにこくこく頷いた。イルカ先生が、そうだぞ、世の中にはタチの悪い人間だって多いんだぞ、とタチの悪そうな上忍を背に負いながら言っている。
「そういうわけだから、ラーメンは今度な。おまえ達気をつけて帰れよ」
いや、あんたが気をつけろ…!!!
私達三人の心の声など聞こえない様子でイルカ先生は背中に被さっているカカシ先生を気遣いながら夜の街を去っていった。

「こっぅぇぇえ!上忍、こっっぅええええ!!なんか知んないけどこええっ!!!」
二人の姿が見えなくなるとキバが叫んだ。
「次に会う時は、俺達の知らないイルカ先生かもしれないな---」
シノがぼそりと言った。
「や、やめてよー。どうなっちゃうって言うのよー」
そう言いながら私は二人の間に流れていた微妙な雰囲気から推測できる気がした。あんまり想像したくないけど。だってイルカ先生は男だし、カカシ先生だって男だ。それに二人とも先生だし。
「ナルト、帰ってきたら泣くかなー」
色々考えてしまって呟くとヒナタが初めて反応した。
「え!ナルト君!?どこ?どこどこ?」
周囲を見回してナルトく~ん、と呼びながらふにゃと泣きそうになる。
「ああああ、泣くなって。ほら、赤丸貸してやるから」
キバがパーカーの胸元から赤丸を出してヒナタに抱かせた。ヒナタは「ナルトく~ん」と言いながら赤丸を抱きしめた。
「はーーーっ、どうすんだコレ。日向の親父さんめっちゃ恐いんだぞ」
キバはずっと憂鬱そうに頭を抱えている。
「大体、おまえがついていて---」
「なによ、私のせいだって言うの!?」
「どうせおまえが強引に誘ったんだろ!
キバに責められて私は言葉に詰まった。強引に連れてきたのは本当だ。だって一人だと心細かったからヒナタについてきて欲しかったんだもん。
すっと、キバと私の間に伸ばされた手が言い合いを制した。
「キバ、いのはヒナタの保護者じゃない。これは完全にヒナタの不注意だろう」
シノの言葉にキバはむすっと黙り込んだ。シノはいつも通りの無表情だ。
シノはさっき私に「これから先たくさんの男がおまえのことを好きになるだろう」と言った。私はシノのことを好きになる女の子もこれから先、沢山いるんじゃないかなという気がした。
「一楽、行くか」
ヒナタの袖を引っ張ってキバが仕切り直しのように言った。私達は酔客達が連れ立って歩く木の葉の目抜き通りを、いつもの店に向かって歩き出した。

私は上手く誤魔化したのでお酒を飲んだことは親にはばれずに済んだ。
私の部屋の棚にはオレンジの花の絵の描かれた小瓶が飾られている。
黒髪の男の子にもらったやつだ。
彼は受付で時々、見かける。中忍用のベストを身につけ額宛を締めている姿は、やっぱりすごく大人っぽく見えた。今度、二人で鼠の国へ行こうよと誘われている。どうしようか考え中だ。
あの後、大人の世界の危険さを身を挺して教えてくれたイルカ先生がどうなったかは知らない。でも次にあった時もイルカ先生はいつものイルカ先生だったので安心した。
何事も経験かしら?と思ったり、あんまり自分を安売りしてもいけないわよね、とも考える。
サクラは相変わらずガッツの塊で綱手様の許で修行に励んでいるらしい。時々、会って一緒にお茶をして話し込む。
その度に私も絶対、こいつにだけは負けないぞと心に誓っている。
アスマ先生とシカマルとチョウジと一緒にあんたの見えない物を見て、あんたの知らないことを知ってやるんだから。
だから私は置いて行かれたなんて思わないんだ。
でも時々はこうやって一緒に同じ香りのお茶を飲んで情報交換しよう。
「このお茶、良い匂いだね。なんていうの?」
サクラが訊くので私は得意げに答えてあげた。
「オレンジフラワーウォーターが入ってるのよ。輸入品でなかなか手に入らないんだけどプレゼントして貰っちゃった」
えー、いいなー、とサクラが可愛いラベルを見て羨ましげな声を上げた。

2006.2.24

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