#9 娘道明寺

「イルカ先生、来ました」
声をかけると先生は後姿でモフモフと咳き込んだ。
「ああ、サクラ」
スチール椅子をくるりと回転させて振り返った片手には小さなピンク色の和菓子が握られている。
人を呼び出しておいて何をしているんだ。
「これな、大羽先生の差し入れなんだ。自分で作られたそうだ」
ああ、オババの。
くのいちクラスで作法だの料理だのを教えている先生だ。見回すと職員室のそこかしこで同じ菓子を摘まんでいる教師達の姿があった。
「サクラも食べるか?」
疑問系で訊いてきたくせに答えも待たず先生は片手に自分の湯呑み、片手に桜餅の二つのった小皿を持って立ち上がった。両手がふさがっているから仕方なく職員室の扉をあけてやった。
ありがとう、と厭味のない顔でにっこり笑う。
私はこの先生が嫌いではない。授業は分かりやすいし、べたなギャグを言うところはちょっとどうなのって思うけど親しみやすいし、悪戯っ子を本気で追いかけているところなんかは見ていて可笑しい。
でもこれから糾弾されるだろうにわざわざ、お前を悪く言うつもりはないんだぞ、みたいな顔をされるのは愉快ではない。
先生は職員室の向かい側にある進路指導室の鍵を開けて中に入った。鍵を空ける間は私が皿を持ってやった。
指導室の中には長机が二つくっつけて並べてあって、それを挟んで向き合う形に折り畳み椅子が置かれている。壁に沿って資料棚が置いてあって、窓際の腰辺りの高さの棚の上には湯沸かし器と茶器が一式。日当たりのいい職員室とは廊下を隔てて反対側にあるので部屋の中の空気はひんやりしていた。先生は私を椅子に座らせると湯沸かし器のスイッチをいれた。
ごわわわ、と湯沸かし器が音を立て始める。
「先生、それいつのお湯?」
不安になって思わず尋ねた。
先生は笑って、大丈夫、毎朝入れ替えてるよと言った。
お湯が沸くのを待たず先生は向かい側の椅子に腰を下ろした。
「最近サクラは一人で帰ってるんだな」
何気ないような口調で聞いてくる。聞きにくいことを聞いてくるのに表情は変わらない、こういうところが親しみやすく見せているけどプロなんだと思う。クラスの男子達はイルカ先生だっせえとか言って馬鹿にしているけど、私は意外にこの教師の物腰が隙のないものだと知っている。
「はい」
私は簡潔に答えた。
「休み時間も一人でいるようだし、お昼休みも図書館にいるんだってな」
「前の定期試験があんまり良くなかったから勉強しているんです」
私の答えに、うん、と頷いてイルカ先生は少し考え込むような素振りを見せた。湯沸かし器がカチンと音を立てて湯が沸いた事を知らせる。
先生は立ち上がって急須に湯を注ぎながら
「いのとはもう一緒に帰らないのか?」
一番聞きたかっただろう事を口にした。
この間まで私はいのと一番仲が良かった。仲が良かったというより仲良くしてもらっていた。いのには私以外にもたくさん友達がいて、でもなぜかいのは私を一番近くに置いていた。私は初めて仲良くなった相手であるいのに夢中だったけれど、いのの方はそんなわけではなかったんだと思う。
いのは気が強くてなんでも自分の思い通りにしたがるところがあるけれど、一方で正義感が強い。私が弱虫のいじめられっ子だったから可哀相だと思ったのと、くだらない苛めをしている連中に苛つく気持ちで私に優しくしたのだろう。
「今は勉強と修行が一番大事なんです。他の子達と遊んでいる時間なんてないんです」
うん、と呟いて先生は来客用の湯飲みに茶を満たして私の前に置いた。
勉強が、修行があるから、そう言えば大概の大人は黙る。アカデミー生の特権だ。
先生はまた考え込むような仕草で口元に手を持っていった。
「まあ、食べなさい。美味しいぞ」
皿の上の桜餅を勧めてくる。大して食べたくもなかったからお茶だけ啜った。
うーん、と先生が唸った。
「サクラ、ナルトと喧嘩したんだって?」
急に話題が変わった。
「別に喧嘩なんてしていません」
嘘ではない。
確かに今日の掃除の時間に私はナルトと言い争いをしたけれど、それは言い争いというより一方的に私が不機嫌になってナルトに雑言を吐いただけだ。
だけどそれはナルトが悪い。
私が苛ついているのを分かっていてちょろちょろと私の視界に入ってきてふざけて見せたり、何やかや言いかけてきたり本当にうざったい。
私は教室の向こうからこちらをちらちら覗いながらひそひそと私の事を噂している女の子達の聞こえよがしな声を無視するのに意識の全てをつぎ込んでいるのに、能天気な顔で目の前をうろうろされるのがどんなに腹立たしいか目の前の教師に説明したら分かってくれるだろうか。
「ナルトはサクラの事を心配しているみたいだぞ」
イルカ先生の言葉に私はあからさまに顔を顰めた。
なんであいつが私の心配なんてするのよ。
男子はそういうところ、お気楽に出来ている。ボスみたいな中心になる子がいて、クラス内で派閥があるのは男子も女子も変わらないくせに、そしてやっぱりナルトみたいに—私みたいに—はぶにされて苛められる子がいるのも変わらないけれど、男の子達ははぶにした子は相手にしない。女子はねちねち厭味を言ったり取り囲んで罵詈雑言浴びせたりする。嫌いなら放っておけばいいのにいちいち相手の弱みに目を光らせて何かあれば食いついてくる。ナルトは仲間はずれにされているけれど一人で悪戯に精を出して気楽そうだ。
ナルトに同情されたんだ。
屈辱的な考えが頭に浮かんだ。
「先生はどうしてナルトが私にちょっかいかけてくるんだと思います?」
意地の悪い気持ちになって先生に訊いてみた。
「え?そりゃあ、サクラが—–ええと、あいつは…」
先生は言いよどんでちょっと照れた顔をした。
バッカみたい。
「いじめられっ子にはいじめられっ子の臭いが分かるんだわ」
私は吐き捨てた。
なんてムカつくんだろう。
私に染みついた惨めさの臭い。
いのが愛で、ナルトが吸い寄せられる私の弱さ。
吐き捨てた言葉と一緒に私の中から出ていって消えてしまえばいいのに。
私がいのを好きになる理由は沢山あるけれど、いのが私を好きになる理由は一つも思い浮かばない。同情以外、なにも。
その事に考えが及ぶと泣きそうになる。
でも私は歯を食いしばって教師の顔を挑むように見た。
「先生も私が悪いって思っているんでしょう?私は嫌な子でしょう?」
そんな事、百も承知だ。
私は優しくしてくれたいのを裏切って、男に媚を売る女だ。
でも私はサスケ君が好きだ。
誰も頼らない、いつも一人で立っているサスケ君が好きだ。
なんでも自分の力でやり遂げて周りを見下ろすサスケ君が好きだ。
おまえ達なんか眼中にない、そう目で言ってガツガツと上ばかり目指しているサスケ君が好きだ。
憧れる。
私が見つけた、私だけのサスケ君だ。
皆、女の子達はサスケ君が好きだと言うけれど、いのもサスケ君が好きだと言うけれど、私は私としてサスケ君を好きになったのだ。
初めて好きな男の子が出来て、嬉しくて皆に報告した時、みんなの反応は冷ややかだった。
何言ってるの、今更。
サスケ君でしょ。
カッコイイよね、みんな知ってるよ。
呆れた口調で、これだからサクラは、みたいに言われた。
どうして私の大切な気持ちをそんな風に言われるのか分からなかった。
いのは初めて私を複雑な、嫌な相手を見るような顔で見た。
私はそれまで自分の事で一杯いっぱいで、いのの後にくっついている事に精一杯だったから、そんな私の事をいのも他の女の子も無害な存在だと思っていたのだろう。それが突然、ライバル宣言を、何も知らぬとはいえみんなの前でかましたのだから彼女らの内心は穏やかではなかっただろう。
その時に初めて私は自分を敵視する少女達の中にある焦燥を読み取った。
みんな、私が自分を脅かす存在になる事を恐れている。誰かが自分を脅かす存在になる事を恐れている。だから弱い者から潰してしまいたかったんだ。
いのだけはずっとそんな風に私を見なかった。
いのはクラスの女子の中ではセンスも良かったし、術も上手かった。お家が商店のためか人付き合いも如才ないところがあった。それまでは私などいのの敵ではなかったのだ。
でも、サスケ君という存在が現れて初めて、私は女の子としていのと張り合う立場になれることを知った。いのの顰められた眉が語っていた。
こいつを敵にしたくない、と。
その時私が感じた高揚を分かってもらえるだろうか。
いのが、私を見る。
いつもの庇うような優しい眼差しではなく、生々しい感情を秘めた切迫した色の瞳で。
怖いのは私だけではないのだ。その事に気がついて私は安心した。私は自分を、いのの背中に庇われてお情けで仲良くしてもらっているだけの存在にしておかなくていいのだ。
家に帰ってから私は部屋で鏡を見つめながら何度も自分に言い聞かせた。
憧れていた、いののプラチナブロンド。
私の淡いストロベリーブロンドはそれと同じくらい魅力的だ。
いのの深い青の瞳。
私の若葉色の瞳はそれと同じくらい綺麗だ。
クラスの女子の中でいのは忍術も体術もダントツだ。
でも私はチャクラコントロールが良くて術が正確だと褒められる。体術だってもっと頑張ればいのに負けない。
笑いかけられるとドキドキしたいのの溌剌とした笑顔は捻くれた私には真似できないけれど、私には私の表情がある。
私はいのにはなれない。でももうその事に絶望しなくてもいいのだ。
私は私になれる。
それが「裏切り者」と女の子達に後ろ指さされて、「いのちゃん、可哀そう」と背中で囁かれる事でも。
私は私になる。もっと自分を好きになる。そしてサスケ君に好きなってもらう。それから—–それから、いのに——–。
その翌日に、私はいのにライバル宣言をした。それからずっといのとは口を利いていない。クラスの女子は私の離反を知って早々にいの側に回って私の悪口を言い出した。いのは何も言わない。
私は、いのに———-。
「先生は、サクラが嫌な子だなんて思わないぞ」
自分と同じ名前の菓子を睨みつけながら自分の思考に入り込んでいた私に穏やかな声が言った。眼を上げるとイルカ先生の真っ黒な眼がじっと私を見ていた。真剣な親身な眼だった。私は思わずこみ上げてくるものが堪えられずに唇を噛み締めた。ぼろぼろと涙が出た。
「サクラは頑張ってるんだな」
イルカ先生が言った。
私は。
私は、いのにわかってほしい。
私が私であることを。
同じ目線で私を見てほしい。
彼女の中で私を弱い、惨めな存在にしないでほしい。
そうでないなら赤いリボンも優しい言葉も朗らかな笑い声もいらない。
「せんせいは、いのに謝れっていわないの?」
しゃくりあげながら私は尋ねた。すぐ泣く女は卑怯だと言われるから泣きたくなんかないのだけれど止められなかった。
「うん、」
イルカ先生は考え考え答えてくれた。
「喧嘩しているなら仲直りさせようと思っていたけど、喧嘩しているわけじゃないみたいだからな」
それからイルカ先生は私に、サクラはいのの事が嫌いか?ときいた。私は首を横に振った。
「サクラには通さなきゃならない意地があるんだな。そういうのは喧嘩とはいわない」
いのもサクラの事が好きだって言っていたよ。
そう言われてまた涙が出た。
日が傾いて、部屋の中は薄暗くどんどん寒くなっていったけれど先生は私が泣き止むまで辛抱強く待っていてくれた。
それからぐずぐず鼻を啜りながら先生と一緒に桜餅を食べた。甘じょっぱいもたりとした物体は胸につかえつかえ私の中に納まっていった。
飲み込むために流し込んだお茶は温くなっていて苦かった。安物の茶葉がいがいがした。

その時の私は悲しかったというよりも自分が欲しがっているものと、そのために手放さなければならないものと、実際に手に入るものと、そのどれもがどうなるのか分からなくて堪らない気持ちになって泣いた。
しゃくりあげながら担任に見守られて食べた桜餅の味は今でも忘れない。

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